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破壊と創造と再生産――「Perdere Omnia」が音楽で生み出した物語

BanG Dream! It's MyGO!!!!!の最終話をゲリラみたいに乗っ取ったあの衝撃から早4ヶ月、遂にAve Mujicaの物語が公開!! なんと、1stライブで!! は???

……いや、何を言ってるか分からねーと思うが(死語)、本当にそうだったんですよ。紛れもなく、一つの物語をやっていました。そして更に驚きだったのが、前回の0thライブと今回のセトリを比べても楽曲自体は2曲しか変わってないにもかかわらず、この世界観を作り上げた点でした。

機械から血肉の通った存在へ、借り物からオリジナルへ

0thライブからしてダークでゴシックな世界観は標榜していたものの、その質感は今回で180度転換したと言っていいと思います。今にして思えば、0thライブのセットリストは極めて機械的でした。事前に公開されていた莉伽と瑠奈のボイスドラマに各楽曲を対照させつつ各パートにカバー曲が1曲プラスされるという、よく言えばシンプル、悪く言えば単調な構成だったと思います。
とはいえ、それでもライブとして成立したのはずっとSNS上をざわつかせていた未知の存在の正体がいよいよ暴かれるという高揚感、そしてRoseliaというバンドリの先輩バンドの楽曲を借りたことにより既存のバンドリファンを分かりやすく刺せた点が大きかったと思います。何もかも分からないけど、とりあえずバンドリではあるという安心感があったんですね。そして、この“未知”と“バンドリらしさ”という2点のアドバンテージを、1stライブでは豪快に投げ捨てました

0thだと特にスカアレンジされた堕天(Creepy Nuts)のカバーなんかが後ろから刺してくるような衝撃を持っていたのですが、今回のセットリストは新曲の素晴らしき世界 でも どこにもない場所とAnglesですらも事前にYoutubeで公開されていたわけで、そういう伏せカードは一切ありませんでした。
そして、新曲の代わりにRoseliaカバー曲が今回はセトリ落ち。こちらは非常に分かりやすく、先輩たちの影響から脱却して完全オリジナルになろうという意図が伺えました。

ただ、0thライブと楽曲の顔ぶれはほとんど変わっていないにもかかわらず、ライブ自体の印象はガラリと変わりました。アニメの最終話から地続きの人形劇と、そして楽曲同士の組み合わせによって、確かな文脈を作り上げていたのです。前述のように0thライブが極めて機械的な構成だったことを思うと、この文脈がまるで血脈のようになって、Ave Mujicaの存在を有機的なものにしていたと感じます。物語そのものが人形と人工の月という無機物の物語だったのとは、対照的に。

ドールたちが紡ぐストーリー ~楽曲を用いたアブストラクト~

最初のパートはアニメ最終話の人形劇パートを垂れ流しおさらいしてからの、あのステージを再現したAve Mujica。そしてふたつの月、KINGSと続けていったわけですが、結論から言えばこのパートが今回のライブのアブストラクト(概要)でした。

ふたつの月はもうまんまでしょう。最終的にもう1つ月を作るという物語(←!?)でしたし、KINGSについては「Search and Kiss and Destroy」というフレーズがまさしくでした。いなくなってしまったかつての“お友達”を探している内に迷い込んだドロリスが、怪しげなドール達との濃密な接触によって世界の破壊を決意する物語でしたので。ふたつの月についてはまた後述することがあるのですが、この曲のパフォーマンス中、ドロリスがモーティスとオブリビオニスの間を行き来するのが印象的でした。全部忘れさせる夜を共に過ごしたういさきに並び立てるくらい、ういむつ、濃いぜ。

そして初手のAve Mujicaはこの2曲をも含めた全体の概要でした。何を隠そう「ドールたちが紡ぐストーリー」とまで歌っていますし。「宿命は産声を上げる」は言わずもがな、「心臓と戯れた喜びから感じたのは生の息吹」もこのライブ自体の、無機物を通した物語でAve Mujicaのキャラクター性に血肉を通わせていくというこのライブのコンセプトそのものだったと思います。

ところで、バンドリのオタクとしてはこれに触れずには居られないのですが、0thでトリを飾ったAve Mujica(楽曲)を1stの頭に持ってきたところで思わずCiRCLING(始点と終点を繋ぐ循環)を連想せざるを得ませんでした。ただ、欠けた円環をエンブレムに掲げており、RiNGからは離れたところで活動しているAve MujicaにCiRCLINGの概念が通用するのかというと少し自信が持てませんでした。もっと言えばCiRCLINGの根幹にはポピパの輪が周囲に広がっていくことが肝要です。であれば人形たちの世界で閉じているAve Mujicaには流石に適用できないか~と、この時点では思っていたのですが、それが大きな考え違いであったことがこの後に分からされることになります。

壊した世界で大合唱 ~第一幕~

その後は人形劇パートとライブパートを交互に展開していく形で世界観を作り上げていくわけですが、いやはやなるほど、人形劇の体裁ならアテレコかつ口を動かす必要がないのは天才の発想かと思いました。いやでも本当に良かった……。口を動かす形式だったらマスクで声が籠もるモーティスとティモリスが過酷なハンディキャップをこうむるところだったので……。この辺り、水面下で企画が動いていた時期が概ねコロナ禍だった名残を感じるところでもあります。
なお、第一幕の冒頭では一緒に遊んでくれた“お友達”に想いを馳せて無邪気な様子も見せてくれるドロリスなのですが、そこからものの数分で世界を破壊するラスボスへと変貌します。そう、全てはオブリビオニスの巧妙な口車によって(またお前が元凶かよ)。このオブリビオニスの誘惑じみた口上により、徐々にドロリスの感情が平板になって内なる怪物が呼び覚まされていく様子が後のライブパートに活きていったなと思います。これがアニメだったらきっと目の光が消えていくような演出になっていたことでしょう。

こんな感じの初華さんが見たくないかと言われると嘘になる

さて、ドロリスが世界の破壊を決断したところでライブパートに移るので、必然的にライブパートは音楽で世界を破壊するものになります。そう、音楽で世界は滅ぼせるのです。ヨハネの黙示録だってラッパが鳴ったらカタストロフィが始まるので。
というわけで元々ポストアポカリプスな雰囲気を漂わせていた素晴らしき世界 でも どこにもない場所がハルマゲドン発生装置となり、滅びた世界は人形たちの暗黒天国になりました。この曲でのドロリスとモーティスの対面ギターが非常に印象的でしたね。本当に人形のように、感情を消して向き合っていたので。ラスサビではどちらもお立ち台に上がって、やはり感情を殺して演奏をするので人形の“お飾り”な部分まで表現されていたように感じられました。今回のライブ中、一番人形らしさを感じたのはこの暗黒天国でした。
滅ぼした天国で人形たちが行うのは、自我=エスを解き放っての大合唱(Choir 'S' Choir)。特にモーティスが台上に上がって片手弾きをしながら観客を煽る様子が印象的ではありました。若葉睦が行う煽りアクションとしてかなり正解だったと思います。煽りすら不器用で可愛いねぇ……。

手にした感情と残した未練 ~第二幕~

暗黒天国が象徴的だったように第一幕は人形たちの無感情な側面を表現していたのですが、第二幕では人形たちが徐々に感情を獲得していきます。ティモリスは破壊の背徳感とその中毒性を。モーティスは静かに死ねる世界への羨望を。アモーリスは愛してくれたあの子への愛憎を。全部ロクでもねぇ!!
しかしながら、この辺りの描写は仮面を外した際のキャラクター描写ともかなり整合していました。芸能人の娘として世間の喧騒に晒されている睦が静かな死を望んでいることは腑に落ちますし、惰性で30ものバンドと関係を持っている八幡海鈴も、こんな感じでなあなあで続いてるだけのバンド全てにパワーコード・リバーブレーションしてやりたいと考えていても不思議ではありません。こうなると、アモーリスを愛してくれたのに壊して捨てた“あの子”も、祐天寺にゃむの物語に関わってきそうで気になるところですね。椎名真希だったりしない?

気になったらガルパの当該イベスト読んで下さい

そして、音楽で作り出す文脈が特に凄まじいなと感じたのはこの第二幕のライブパートでした。他の連中がアレな感情を抱くようになっているのに、ドロリスだけは世界を破壊した際に哀しみは一緒に消えたと語ります。そして、それが懐かしいとも。明らかにドロリスだけ今いる地点が他の人形とはズレています。そんなドロリスに今日の宴を刹那的に楽しめというオブリビオニスの口上からMas?uerade Rhapsody Re?uestが始まるのですが、間奏で突然ドロリスが発狂。直前の人形劇のセリフを思えば、あの子に捨てられた哀しみを思い出したということになるでしょうが、ラスサビの「ああ もうどうだっていい~♪」という歌詞に乗せて完全に開き直ってました。全部オブリビオニスの策略どおりだ……。
“堕天”したらあとは楽しむだけとばかりに堕天でノリノリになるドロリス。さっきの暗黒天国とは打って変わってモーティスとの対面ギターでも感情を剥き出しにするようになっており、堕天することで他の人形たちと同様、感情を受け止めたのでしょう。それはそれとして「俺らハナから大真面目、エーイ!」の笑顔カッチョ良すぎて夢女(30代男性)になるところでした。睦と祥子の間の行ったり来たりが一番多くて三角関係ラブコメの主人公か?と思わされたのもこの曲ですね。三角姓ってそこから来てます?
「ああ もうどうだっていい~♪」で開き直って堕天したにも関わらず、3曲目はよりにもよっての神さま、バカ。ちょっと未練残してます。歌詞も「だからせめてきかせて ねぇお願いもう一度」なので、堕天の吹っ切れっぷりからはかなり相反する感情が交々しています。この人形たち、かなり人間じみた複雑な感情を持っています。

セカイの再生産と拡大 ~第三幕~

そうは言っても楽しい宴はいずれ終わるもの。月の光に照らされる時だけ動けるようになる人形たちは、月の沈む時刻となって、その仮初めの命の終焉を待つだけの無力な身……となって終わるはずもなく、アモーリスからのもう1つ月を創っちゃおうという画期的な提案から全てが好転していきます。そうそう、音楽で世界壊せるんだから音楽で天地創造するくらい余裕なんだよな~!!
そういう黙示録の後に創世記が来たくらいの展開でしたが(余談ですが創世記の「光あれ」はバンドリ楽曲で何度か登場する歌詞です)、世界そのものが自分たちの随意で破壊も創造も容易というこの設定、トンデモに見えて、実のところ我々オタクにはとても馴染みがあります。ああ、そうだ……これ、セカイ系だ!!

セカイ系という言葉自体が曖昧で掴みどころがなく雑に乱用されすぎなのでこの際説明は省きたいのですが(この用語を端的に説明できる人間もおそらく皆無でしょう)、ひとまず主人公とその周辺人物の在り方がそのままセカイの在り方と直結している作品群と考えて頂いて差し支えないと思います。そして、今回のドロリスたちの姿に一番近かった作品は少女歌劇レヴュースタァライト最終話だったと思います。いやまあ、この作品をセカイ系に分類すること自体に抵抗があるのは分かります。分かります。
スタァライト最終話は、レヴューに敗北した舞台少女が何より大切な煌めきを失うという残酷なルールに対し、愛城華恋が煌めきを奪われる相手を九条かれんに指定するという大胆極まりない決断をするところから全てが奇妙に狂い始めます。そこからは幼馴染みのかれんとの思い出の象徴である東京タワーを架け橋にするという衝撃の絵面でセカイの在り方を改変し、そして「ひかりちゃんを私に、全部ちょうだい!」と宣言したことでアタシ再生産=セカイ再生産=アナタ再生産という図式が完成。アタシが変わることでセカイも変わり、結果的にアナタ=九条ひかりを救うという見事な結末でした。

ちょくちょくスタァライトの話をしたくなるのはこの筆者の病気みたいなものとして、兎にも角にもドロリスたちの認識の変化によってセカイの在り方そのものが変わり、セカイの改変(=創造)すら可能になったという流れは概ね軌を一にしていたと思います。ただ、大きく違っていたのはアナタの在り方。スタァライトにおいてアタシとセカイが変わることで巻き込まれて変わっていくアナタは概ね九条ひかりだったのですが、Ave Mujicaにおけるアナタは疑いようもなく俺らでした。えっ、俺ら!? それもそのはず、Ave MujicaもやはりCiRCLINGの使い手だったからです。

このツイートを見た瞬間、流石に「やられた!!」と思いました。このやり口、明らかにポピパのそれです。Poppin'Partyを取り巻く有名なミームとして、5chに書き込まれた「俺もポピパの一員なんやなって……」というだいぶキショいオタクの妄言があるわけなのですが、ポピパが一体感と輪の広がりを標榜しているバンドであることを思うと、このオタクの発言は気持ち悪くはあっても正しく本質を掴んだものではあると思います。紛れもなく、ポピパはポピパの一員を増やすことでその勢力を拡大してきましたし、それこそ輪を広げていくCiRCLINGの在り方そのものです。
そして、このCiRCLINGの部分を捻って発展させたのがAve Mujicaの共犯者なのだと確信しました。ポピパの一員ミームはこの瞬間反転しながら進化し、「俺もAve Mujicaの共犯者なんやなって……」に変貌しています。そう、Ave Mujicaのライブを目撃したならアナタも今日から共犯者……。CiRCLINGが孕む“循環”の要素が破壊と創造の連鎖となっていることからも、実のところAve Mujicaは反転した形でCiRCLINGを継承しているのだとここで完全に確信しました。まあ、CiRCLINGの輪・環・和のうち、和だけは明らかに削ぎ落としているのですが。
セカイ系よろしくセカイを創造する際に舞台が暗転し、新しいアナタを生む囁きを左右に振ってくるところも催眠ASMRみたいで凝ってましたね。あそこで没入感に浸ってしまったら即共犯者という絶対に回避できない罠が仕掛けてあったわけです。「おめでとう」を連呼するのも、セカイ系の始祖として扱われがちな新世紀エヴァンゲリオンの明確なオマージュでした。そしてセカイと共に我々オタクもムゥンライトされ、オギャーと産声を上げるに至りました。

別の理由で産声を上げた人

さて、人形劇中では人工の月を自らの手で作り出すことで人形たちはその命を永らえるという結末を見せました。なるほど、Ave Mujicaのシンボルマークが歯車と三日月を模した意匠なのと合致しますし、ふたつの月が常に空に在る循環が成立するのなら(CiRCLING!)、常にこの世は人形たちの暗黒天国というわけです。ところで、ふたつの月が常にこの荒廃した地上を照らしている必要があるとするなら、第二の月の衛星軌道上の位置は、第一の月の180度反対に存在する必要があります。このイメージが湧いた時、ふとある既視感を覚えました。氷川姉妹です。

“日”と“夜”を背負った自分たちの名前を、それぞれの解釈で嫌っていた双子。太陽と月がお互いを追いかけ合い、そして昼と夜の境界で繋がり合っているという関係がこの誕生日4コマでは鮮明に表現されています。Ave Mujicaのふたつの月の関係も間違いなくこれと同じです。決して同じ空には居られない月と月が夜を繰り返し続けることで、終わらない循環を作り上げています。余談ですが、0thライブのふたつの月のパートで共に演奏されたのはDetermination Symphony。紛れもなく氷川姉妹の曲です。さきむつ双子説の件もありますし、ふたつの月の在り方が氷川姉妹に重なってきたのはかなり面白くなってきたところです。まあ、この2人の誕生日が異なるという情報も出てはきたのですが。

でもきっかり1ヶ月違いなのは怪しいなあ……

ライブパートの物語性については……いえ、このパートに限ってはもう語る必要もないでしょう。黒のバースデイとAngles、この上ないくらい再誕と創造をテーマにした楽曲でした。印象深かったのは、Anglesの1番、オブリビオニスのピアノとドロリスのボーカルだけで語り合うパートで、ドロリスがハンドマイクを持っていたこと。2人の語らいの中ではギターすら雑音なのは思い切った表現だと息を呑みました。そして同時に、おそらくギターは7弦同士、モーティスと通じ合うツールなのだろうとも感じます。

というわけで、音楽ライブとは思えないくらいきちんと物語やってて本当に凄かったね~!! ということを書きたかっただけなのに、7000字規模の記事が出来上がってしまいました。それくらい音楽を使って作り上げた文脈が見事でしたし、一つの世界観が完成していたと思います。脚本はIt's MyGO!!!!!でも各話脚本を担当されていた小川ひとみさんとのこと。やはりここまでアニメと地続きのものはアニメのシナリオ制作に携わっていた方の尽力あってこそだなと納得しました。いやはや、本当にいい物語でした。

Ave Mujicaのアニメは来年1月とかなり待たされることになるのですが、ここまできちんとした物語を1stライブでぶつけてくるとなると「供給が欲しい? ならライブ来いや」とでも言いたげです。実際、2ndライブでも別の物語を作り上げてくれるのではないかという期待が高まりますし、新曲が5つリリースされることも発表済みなので、全く違った物語になりそうでもあります。
あ、ところで愛知の開催日、七夕なんですね。七夕と言えば前述の氷川姉妹とも非常に関連が深いんですが、Ave Mujicaのパフォーマンスでも神さま、バカの時だけモーティスがオブリビオニスのもとに行けるみたいな仕掛けもあって、かなり織姫と彦星に近いものを感じてるんですよね。偶然でしょうか。


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