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おまえによく似た獣の名

 目次


〈生生世世・歌方永久〉
と或る朝



 心の臓が鳴っている。
 薄ら目を開けたのは、おのが主に名を呼ばれた気がしたためであった。其の声に返事をしようとした唇はしかして動かず、端の方から小さなあぶくが漏れるのみ。少しばかり視線を動かしてみれば、大きく穴の空いた自身の左胸から赤黒い靄が揺蕩うように上っていった。目を瞑る。思うほど、死はにおいを感じさせないものであった。濁った水の中で藻掻くこともできず、此の身体は重く絡む上衣と共に下へ、底へ、果てへと沈んでゆく。
 嗚呼。
 嗚呼、主君——無常様。結局己(おれ)は、貴方にとってなんの御役に立つことも出来ん儘、斯うして無様に死んでゆくようでございます。けれどもこんな己の最期を、きっと貴方はひどく悲しんでくださる。其れが己は、自分が死ぬより余程悲しい。嗚呼いっそ、笑い飛ばしてくれたならば。無常様、己は己を此の世で最も不甲斐なく思います。其れでも己は、貴方がどんな形でも生き延びて——生き延びて、生き延びて、然うして生きていてくだされば、其れだけでもう、思い残すことなどは一切——ほんに一切、ございません。己は貴方の幸福ばかりをねがいます。おれは、そう、あなたさえあればいい。あなたさえ。あなたさえ。どうか、いきて。いきて、いきて。いきて。
 目を閉じる。
 意識が彷徨う。揺蕩う。
 沈む。
 もう浮かばない。
 目が暗くなる。
 頭が昏くなる。
 全てが黒くなる。
 手を、離そうとした。
 手を。
 ——瞬間、目を開けた。
 其れは、身体中の血管が一切合切引き千切られるような衝撃だった。痛みはない。或いは痛みが強すぎて、痛みと認識出来なかったのかもしれなかった。身体の何処かでぶつりと鳴った此の音は、今しがた己が自ら手放そうとした主との縁を、しかし目の前で別のものに引き千切られる音に違いない。こめかみが、耳の奥が、指先が、肺が、穿たれた左の胸と鳴る右胸が、胴、脚、爪先が、未だ巡る血と流れ出ていく血の全てが、己の全てが一斉に声を上げていた。願いは潰えた。主は死んだ。我が主君、歌方無常は黄泉國へと渡った。
 がぼりと、開けた口から歪んだ空気の塊が吐き出される。
 いいや、主は呪いをかけられた。黄泉國へは旅立てない。此岸を旅立ち、彼岸へと向かうはずの魂は、しかし三途の川に呑まれ、再び此の世に流れ着く。母の海に揺蕩う、おのが子の魂の中に、羊水よりも根深い記憶として。呪詛の形、因果の姿、闇の昏さ。其れ等全てが今、聴こえる。其れと共に、千切れた縁が、未だ細く繋がる契りが、悔恨を抱えた儘に此の名を呼んでいた。禍々しい、地獄のような永遠を約束した呪いの気配が、濁った水よりも此の目に沁みる。否、最早そんな痛みはどうでもよかった。己は、何もかもが遅いのだ。何もかも。何もかも。だから、手を離すよりも早く他者に縁を切られる。だから、主の身代わりとなって死ぬことも出来ない。だから、護れぬ。愛した人すら。愛した、人、すら。
 何故。
 どうでもいいと一蹴したはずの痛みが、轟くように全身へと走る。さながら血管と言う血管で己の血が煮えたぎり、其れ等が肌を裂いては身体の至る処から噴き出るようであった。頭から爪先、其の外側も内側も全てが痛い。或いは、熱いのか。喉が吐き出させろと震え、唸る。洩れ出た声は音に成らず、只の気泡と化して消えていく。嗚呼、ああ、アア! 冷たいはずの水中を沈んでいると言うのに、此れではまるで熱湯を頭から浴びているようなものだ。嗚呼! なんなんだ、此れは。なんなんだ、己は!
 然う誰に問うても答えはない。問うべき相手ももう此の世にはいない。
 けれども、視界は濁った水の鈍色を映し、そして翻った魚の尾を捉えた。其れを見た瞬間、どうすべきかではなく、どうなるのかが分かってしまった。最早、己に残された道は一つのみ。ゆらりと誘うように水の中を進む長い魚の尾が、細い糸のように見える。己を此処に繋ぎ止め、主に絡まる呪詛の緒を引き千切るための。其れが喩え、人の道から遠く外れることに為るとしても。彼奴と同じ修羅を己に飼うことに為るとしても。誰が死しても、誰が巡っても、共には黄泉へと至れなくとも。極楽にも、地獄にも、永遠に。主ともう二度と、共には歩けなくとも。
 ——其れでも。
 血の色が照り返る白い糸に追い縋り、衝動の儘、其の背に牙を立てた。
 目の前が真っ赤に染まる。
 恐らく此れは、怒りだった。
 赤黒く塗れた水の中で、がぼりと小さく息を吐く。平凡な幸せを掴み取って欲しい。主が淡く発した其の願いは、けれども叶えられそうにもなかった。其れだけは。
 其の、願いだけは。



 光が在る。
 沼の淵から這うように地面へと転がり出て、少年はひゅ、と短く息をした。は、は、は、と苦しげに呼吸を繰り返すさまは、息をすると言うよりはしかし、まるで息の仕方を思い出しているようでもある。彼は水で重く濡れた前髪を煩わしそうに横へ流し、薄く開けていた片目を忌々しげに閉じた。然うして彼は、吸うことばかりに集中しすぎている身体からなんとか空気を吐き出すと、自身の呼吸が正しく整うまで、其の場から動かずにいた。
 ややあって、少年は再び薄く目を開き、ひどくゆっくりとした速度で葦の生い茂る土の上に立ち上がる。彼は折れた枝垂れ桜より遥か彼方、青く白んだ山々の向こう側から昇り来る太陽を見やり、其の片目を無表情に細めた。然うして視線を下ろし、彼は己の両手を目に映す。鱗の這う其の両の手を閉じては開いてを繰り返し、少年はさして興味もなさげに片方の指先で両腕の其処此処を斑に覆う鱗の一つに触れた。
 しっとりと硬い其れは、迫り来る光を鈍く反射している。
 少年は視線を自身の左胸の方に下ろす。其処では、腕に張り付いているものと同じ鱗が、びっしりと円を描くように寄り集まっては先ほどまで空いていた穴を覆い隠していた。彼は鱗によって塞がれた傷口に片手を滑らせると、其れから右の胸へと指先を移動させる。少年は息を吐いた。指の腹に、脈打つ己の鼓動を感じる。今、自分は確かに生きている。息を吸う。生来、五臓六腑の全てが世人と比べて鏡になっている自分の此の性質を有り難がるべきなのか、其れとも恨むべきなのかはもう分からなかった。
 分かるわけがない、あの方はもういないのだから。分からない儘でいい。どうでもよかった。あの方はもういない。己に答えを与えてくれる存在は、もう。
 ——だが、其れでも、一つだけはっきりとしていることが在る。
 殺さねばならない、あの猫を。殺す。必ず、殺すのだ。どんな手段を用いても、どれほどの時を費やしても、必ず。彼奴が殺しても死なない存在だと言うのなら、其の躰をばらばらになるほどに引き裂いて、肉も骨も灰燼すら残らぬよう灼き尽くしてやる。四肢を斬り、目を潰し、舌を引き抜き肺も引き摺り出し、其の脳髄を思考も意志も二度と浮かび上がっては来ないほどに叩き潰し続けよう。然うしても死なないと言うのなら、其れを永遠に繰り返す。永遠に、永久に。主君の呪いが解けるまで、或いは、解けたとしても。己とて、もう人間ではないのだ。己は自ら流転の輪から外れた外道。どうでもいい。己をつくり上げたもの、己が最も信じ、縋るものを神と呼ぶのならば、最早己に神はいない。此れから殺すものの呼び名が鬼だろうが神だろうが、そんなことに然したる違いも意味もなかった。
 少年はぼたぼたと流れ落ちる水滴を拭うことも、左胸に大きく穴の空いた上衣の裾を絞ることもなく、無表情に葦を踏み拉いて歩き出す。そして、そんな彼が沼の方へと振り返ることはついになかった。自分の姿がどんなものに成っているかなど、興味もない。只、頽れた自然ばかりが転がる伽藍の全てを照らし出さんとする朝日の光ばかりがまばゆく、何処か残酷に少年の輪郭を浮かび上がらせていた。
 瞳を刺すような其の始まりの光に、彼はふと思い出したように一度足を止め、片手で左目を覆うようにした。少年の吊り上がった切れ長の双眼は左目ばかりが此の世を映し、其の右目はと言えば眉の下から頬骨の辺りまで縦に深い傷痕が走り、瞼を持ち上げることさえ困難なようだった。彼は眉間に皺を寄せ、さながらこじ開けるかのようにゆっくりと、遅々とした速度で右の瞼を上げていく。元の虹彩の色すら分からないほどに白濁した其の瞳が瞼の間から覗いた処で、少年は短く息を吐いて目を閉じ、左側を覆っていた片手をそっと下ろした。
 彼は心の中でかぶりを振り、其れと同時に自嘲めいた笑みを浮かべる。今しがた受けた傷は埋められても、世を映さなくなった此の右目を治すことは出来ないのか。今更両の目を使って焼き付けたいものもないが、しかし使えるのが片目だけと言うのはやはり不利な処が在る。嗚呼——では、彼奴も右目から潰してやろうか。
 然うして再び歩き出した少年の目には、花々の死骸や助けを乞う草木の姿は勿論、先ほどまで眩しいと感じていた陽光すらもう映っていなかった。彼は化獣の猫と人間の無常が対峙した御堂の前までやって来ると、其処に落ちている刀、そして其れを未だ握り締めている無常の右手だけを自身の隻眼に映した。
「——無常様」
 死と沼の淵から這い出て、少年が初めて口にしたのは、其れでもおのが主の名前だった。目も、耳も、頭も腕も胴も足も、魂の行き先さえも奪われた無常が此の世に自分のものとして遺せたのは、きっと此の片手と握り締められた刀ばかりだろう。然うして此岸に遺された主の欠片を目にして、少年ははくりと息を呑み、其れから自身の唇をきつく噛んだ。
「主君。無常様……」
 然う名を呼んでみても、どうした、と優しく微笑んでくれる主の姿が目に映らない。少し首を傾げたときに揺れる其の深い緑色の髪も、然うして形の良い眉がそっと下がるさまも、金の月にも似た色の目が柔らかく細められ、伏せた睫毛の隙間から此の世の何よりも尊い光が洩れるのも、淡く上げられる其の口元も、歌うようにこちらの名を呼ぶ其の声も、其のどれもに、其の何もかもに、己はもうまみえることが出来ない。二度と。二度とは。
 膝を折る。もっと、何か言うべきことが在るはずだった。御護り出来なくて申し訳ありませんでした。わたしは従者としても、忍としても、貴方に合わせる顔がございません。貴方をあんなバケモノの元へと向かわせるべきではなかった。わたしが一人で。然うすれば。然うすれば、貴方は今も生きていてくださいましたか。分からない。わたしにはもう、分かりません。貴方がいなければ、わたしはきっと全てを誤ってしまう。願うなら、貴方の向かう先を永遠に供したかった。貴方と共にならば、其処が此岸でも彼岸でも、極楽でも地獄でも、其れ以外でも構わなかった。あの夜、貴方が生き延びられるのならば、己はもうどうなってもよかった。いつか貴方が来る場所で、貴方のことを待っているつもりだった。貴方が死するのなら、こんな此岸に未練が在るはずもない。けれど——貴方は、死しても尚、此の世に留まらなくてはならない。己が死に、冥土の淵で幾ら待てども、貴方が其処へやって来ることはない。永遠に。永久に。呪いが貴方の魂を縛る限り。ならば、己が生き続けようと思いました。貴方に絡まる呪いを灼き切るときまで、然うして貴方の魂が冥土へと向かった後も、永遠に、永久に。落ちられない地獄を味わうのは、自分だけでいいと。こんなことで、貴方への償いになるとは思えない。けれども此れしか——もう此れしか、己には贖罪の道が残されていませんでした。だから、だから己は、人魚の肉を喰らいました。主君。無常様。無常様……
「己は、間違っていますか……?」
 少年がなんとか吐き出したもので、声に成ったのは其の一言ばかりであった。
 山の頂を越えた朝の陽が、溢れんばかりに伽藍を光で満たし、少年の輪郭を殊更に金混じりの白に染め上げる。少年だけではなく無常の片手や刀、死した草花、木々さえも光は分け隔てなく照らし、其のさまはまるで呼吸も忘れるほどであった。けれども少年はそんな夜明けの合図にも気が付かない儘、地面に転がる無常の手へと鱗斑に成った自身の両腕を伸ばし、其れを壊れ物を扱うかのように震えながら抱き締めた。刀の刃が幾らか肌を裂いたようだったが、其れすらも少年は視野に入らない。或いは、気にもならないのかもしれなかった。
 主の欠片を抱く彼はひどく苦しげな表情を浮かべていたが、しかし其の目に涙はなかった。少年には、自身に涙を流す資格などないように思えたのだ。然うして血が滲むほどに唇を噛み締めながら、彼は御堂を背に立ち上がると、無常の片手を刀を抱いた儘、弾けるように駆け出した。
 土を踏み、砂利を蹴り、草花を拉き、折れた木々を伝って高みへ上り、其処から下へ、更に下へと跳ぶ。向かうのは只一つ、歌方無常の屋敷、己の家と呼ぶべき場所だった。木の枝から枝へと飛び移る少年の片側を、日の出の光が照らしている。差す太陽に呼応するようにちかりと煌めく彼方の刃ばかりが、彼の片目に宿る迷いの色と、其れを振り払おうとする光、そして其の両方を灼かんとする炎の姿を映していた。
 ——少年の名は、奏。
 奏、奏。口の中で自身の名を呼び、無常の声を想い出す。息も吸っていないのに、鱗で塞がれた左胸の奥が痛むような気がした。奏。無常のために人で在ることすら手放せた彼が唯一手放せないのは、其れでもやはり、無常から与えられた此の名前だけだった。
 光が在る。
 然うして彼は、夜が明けていることに漸く気が付いた。今更だった。彼にとっては、全てが。


20191013
シリーズ:『花二嵐ノ

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