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ビリーブ

 目次

 ふと足を止めたのは、今日の夕焼けのせいだった。
 この世界に在るすべての橙をすべてかき集め、それを空一面に塗り混ぜたかの如く、ただただ呼吸を忘れるほど美しい、鮮やかな夕焼け。燃えるようなとも、また焦がすようなとも少し違う、しかし確かに瞳へと焼き付いては記憶に色を残す黄昏の空に、自分の足ははたと動かなくなった。動く気を失くしてしまった。
 今日はどう過ごしたかと言えば、それはほとんど屋内にいた。街道の外れに位置していた旅人用の小屋を一晩拝借し、朝が訪れても尚そこで荷物の整理をしていた——正しくは、せっせと羊皮紙の残りを数えている内に、今まで書いた手記を読みふけってしまった、である——のだが、それが一段落ついたと思えば、これまたちょうどよく小屋へ行商人が顔を出してくれたので、羊皮紙や食糧を買いだめしてその商人と話し込んでいたら、こんな時間になってしまっていたのだ。そうしてやっと外に出たと思えば、空の太陽が傾いていたので驚いた。
 諦めてもう一晩小屋で過ごせばいいものを、自分は存外せっかちなのだろうか、今晩何処で寝泊まりするかの当てもないまま出発してしまったのだ。地図を広げたまま、視線を落として歩いていたから、目の前に広がる空がいつの間にかこのような橙に染まっていることに気が付かなかった。
 だから、ふと顔を上げたとき、思わず息を呑んだ。
 きっと、瞬きだって息を忘れていたのだ。だからじっと見つめた。ほんとうに、じっと今日が暮れゆくさまを見つめていた。そのせいだったのだろうか。太陽の光を浴びてじゅわりと滲んでいく夕焼け空の色に、真っ直ぐ見つめるには眩しすぎる斜陽に、しゃらと自分の耳飾りを鳴らす少しばかり乾いた風に、心の中に浮かんでいた風船へと針を刺されたような感覚を覚えたのは。
 空気が抜けていく。思わず、足りなくなったものを補うように息をした。肌に触れる風もまた、誰かの風船から抜けた空気なのかもしれなかった。そうやって呼吸を思い出すと同時に、夏が終わることを知った。
 夏が終わって、秋が来る。
 それはまるで空の色が移ろうような自然さで、あまりに柔らかい輪郭と温度を以ってはゆっくりと溶け合っていく。春から夏へとは違う、もっと静かな変化。それこそきっと、この夕暮れのように。
 さらりと草花がなびく音と共に、再び薄布で撫でられるような感触が頬を伝った。そのようにして再び吹いた風にはっとさせられて、止めたままだった足をようやく動かす。
 次に訪れる予定の街は、緑の大陸のほぼ中央に位置する、この国の中心的都市だという。
 そこへ至るための街道はやはりと言うべきか、今まで通ってきたどの街道よりも歩き易いようによく整備されていた。目の前に続いているのは、古く使い込まれてはいるが、その分きちんと修繕が施されている、大きさの揃った灰青色の石畳。しかしながら、今日の夕陽に照らされて、その石畳たちはずっと先の方までが金の色に塗れていた。道の両脇には、街道に沿うように植えられている低木と、少しだけ猫背になっている外灯が立ち並び、それらは陽光を受けて輝いていると同時に、前方へと向かって長く影を伸ばしている。
 太陽は西に向かって沈んでいく。西のうなぞこへと身を浸し、そうして眠りに落ちていく。
 だから、夕暮れの太陽はいつも、東へと向かう自分の背後だ。
 目の前に広がる夕焼けを目にしてからの歩みは、我ながらひどく緩やかなものだった。背中で感じる斜陽の熱に、想いを幾つも馳せられるほどに。だって、どれだけ急いで歩こうが、或いは走ろうが、目的の街は未だ気配すら認めることのできないほど遠くに在るのだ。どう足掻いたとて、今夜はまともな宿にはありつけないだろうと思われた。旅人用の小屋を見付けるか、空腹で倒れて魔女にでも拾われない限り。
 そうして諦め半分に街道を行く自分の歩は相も変わらずゆっくりと進みたがるが、しかし金かがみの月の夜は、こかげ呼びのそれに比べて数段肌寒いということに、ここ数日で気付かされたばかりである。野宿の覚悟を決めているとはいえ、あまりうかうかとしていると、またいつの間にか日がとっぷり暮れて、木々の屋根すらない道の端っこで自分のマントにくるまる羽目になりそうだった。風はともかく、多少の雨はしのげる木が見付かればいいのだが。
 確かにこんにちの夕暮れは恐ろしいほどに美しいものだったが、その場でずっと見惚れているわけにもいかないのがなんとなく残念な気もした。
 視線を夕焼け空から外して、少し辺りへと向けてみる。そうしてみれば、多少離れてはいるが、街道を外れた向こうの方に何か——遺跡のようなものが見えて、ああ、と思う。なんだ、ちょうどよかった。あの遺跡に、一宿の恩を借りることはできないだろうか。そう思い付くが早いか、自分の足は街道沿いに並んでいる低木を意識しない内にまたぎ越え、道を外れて佇んでいる遺跡の方へと進んでいった。
 目的地へ向かって歩を拾うにつれ、夕焼けの色は更に濃く、赤みを増して存在を放っていく。土に柔く生える下草も、時間を経ていよいよ輝きの頂点に至った暮れる太陽の光が眩しいようで、その身を少しのけ反らせていた。
 そうして先ほどと比べると数倍は早足に歩みを進めていくうちに、欠けて倒れてしまっている遺跡の柱が目の前に現れる。おそらく大理石製だと思われる柱には神々や星、そして太陽などを題材とした意匠が、柱頭をはじめとしてそこここに施されていた。この遺跡は、老朽化して崩れかけている神殿の跡地か何かなのだろうか。柱を支えとして地面から蔦が絡まっているのを見るに、この神殿が捨て置かれてからそれなりの年月は経っているように見えた。
 旅人である手前、何処にも辿り着かず眠る場所すら見付からないまま、日がすっかり暮れてしまっては困るとはよく言うものの、しかし緑の大陸では、夏の終わりから秋のはじめにかける夕暮れが他のそれと比べて時間が長い。そういう話を、この間旅人用の小屋に訪れた商人から聞いた。これが夏——たとえば先月のこかげ呼びの月だとしたら、今くらいの時間にやっと空が夕焼けの気配を帯びはじめる頃だろう。冬だとしたら、もう日はすべて沈んでいるのではないだろうか。そう思えば、確かにここ数日の夕暮れは色の移り変わりがゆっくりとしていた。
 そっと息を吐く。まだ、しばらく夜は訪れなさそうだ。
 神殿跡へと向かおうとした歩を再び緩めて、なんとなく折れた柱の隅に腰掛ける。辺りを飛んでいるたくさんの透かし蜻蛉が、その羽に夕暮れの色を吸い込んでいた。そんな中の一匹が、柱に腰掛けている自分の隣に舞い降りて、そうして少し休息を取ると——もしかすると、夕焼けを眺めていたのかもしれない——また浮かび上がって、いずこかへと飛び立っていった。
 拓けた視界に、雲一つない鮮やかな夕焼けが映り続ける。未だ、夜の藍色をした絵の具は、一筆も空の画布に描かれていなかった。夏が終わる。目を閉じた。さらりと風が吹く。夏はたぶん、終わったのだ。
 目を開ける。風が草を揺らす音とも、また蜻蛉がその羽を震わせる音とも違う音が耳に入ってきたからだ。
 ゆるりとそちらの方を見やれば、神殿の入り口から、一人の少女が大きな荷物を両腕で抱えながら姿を現した。彼女の方へと向けて斜陽の光が一心に降り注ぐ。それを真正面に受けている少女の輪郭は他のそれらと同じように金の色を纏い、顔などは最早よく見えなかったが、彼女が眩しそうに目を細めていることは分かった。
 少女が注ぐまばゆい光をなんとか遮ろうと荷物を掲げながら階段を降りる。そうして地面に降り立つと同時に、折れた柱に腰掛けている自分の存在に気が付いたようで、驚きながらその足を止めた。それもそうだろうな、と内心申し訳なく思いながら、ひとまず少女に向けて会釈をしてみる。相手もきょろきょろと辺りを見渡して、それが自分に向けたものだと分かると、ぺことこちらに向けて頭を軽く下げた。
 彼女のいる神殿前から、その手前に倒れている折れた柱の端までは幾ばくかの距離がある。歩いてやってくるには、おそらく少々面倒な長さの直線だ。荷物も抱えていることだし、彼女がこちらまでわざわざやってくることもないだろう。また、自分が彼女の方まで向かうにしても、その間、ゆっくりとは言えど刻々と暮れる日の中で、その貴重な時間をただぼうっと待たせるのも悪いような気がした。
 そう思って、視線を彼女から外して再び夕焼け空の方へと向ければ、たたた、と地面を叩く音が聞こえてきて、今度はこちらが驚きながら振り向いた。走ってきている。大きな荷物を抱えたまま。それを目にして、思わず柱から腰を浮かせて立ち上がった。
「す、すみませ——ん!」
「はっ、はい!」
「旅の方ですか——⁉」
「そ、そうです!」
「あたしも——!」
 向こうの方から大きな声で問われ、つられてこちらも大声で答えを返せば、更に大きい声で言葉が飛んでくる。そんなやり取りがなんだか可笑しくて、ほんの少し笑いを零してしまえば、その間に少女はどんどん自分との距離を縮めていった。それにしても足が速い。両腕に荷物を抱えているにもかかわらず、身体の軸がぶれることもなかった。駆けてくる彼女に驚いて、透き蜻蛉たちもその場で立ち往生をしているようだった。
 陽光を受ける少女の姿が段々と明瞭になるにつれて、夕焼けのせいで赤く見えているのだろうと思っていた彼女の髪がほんとうに赤々いこと、そして、瞳が火にかけた木の実のような、茶色と焦げ茶の間の色をしていることが分かった。更に、自分より多少年が下に見えるその少女は、自身の背に大きな剣を負っていることも見えた。柄頭に飾られている赤く丸い石の飾りが、斜陽を浴びてちかちかと光っている。
 頭の上の方で一つに纏められているその赤い髪が、彼女が走るたびにイヌの尻尾のように揺れている。少女が身に着けている淡い橙色のリボンもそれに合わせるように揺れ、なんとなくその様子を視線で追っている内に、気が付けば彼女は自分の目の前までやってきていた。
「と」
 予想の何倍もの速さで目の前に現れた彼女にびっくりして、口から特に意味をもたない一文字が洩れ出てしまった。少女はちょっと首を傾げて、こちらの言葉の続きを待つ。そんな彼女に軽く咳払いをして、気恥ずかしさから曖昧に笑った。
「——遠かったでしょう。すみません、わざわざ……」
「いいえ! これくらい、なんとも。それに、近所のおばさんが、自分から挨拶をしてくれる人に悪い人はいないってよく言ってましたから!」
「そういうもの……ですか? というか……さっきのも、挨拶に入るんですか?」
「入りますよ! 挨拶って、言葉だけじゃあないんですから!」
 そう言って少女は、陽の眩しさからではなく、しかし目を細めて笑った。少しだけ肌寒い風が吹き、その中に夏の終わりと秋の始まるにおい、そしてもう一つ、何かがやってくるにおいを感じる。たぶん、夜だ。そのにおいの方へと視線だけ向ければ、天上からゆったりとした速度で紫と藍が混じり合った色が降りてきているようだった。
 視線を少女の方へと戻す。そうしてみれば、彼女もまた、夕焼けの方を見やっていた。そして、その表情を目にした瞬間、
「——何処かでお会いしました?」
 と、自分の口が勝手に言葉を発していた。少女は声をかけられたことにはっとして視線をこちらへと戻し、それから自分の方を見ながらぱちぱちと瞬きをくり返す。そうして彼女は困ったように笑い、荷物を抱えたままぽりぽりと痒くもないであろう自身の頬を掻いた。
「そんな口説き文句、今どき流行んないよ」
 冗談めかしてそう言う彼女を見て、自分のうなじ辺りを軽く触った。
 もちろん口説いたわけでもないし、冗談のつもりでもない。しかし、確かに目の前の少女と自分は初対面のはずだ。何より自分には記憶がない上、もし以前の自分が彼女に出会ったことがあるとしたら、先ほどの問いに対して彼女はきっと頷くだろうと思えた。では、自分は彼女の何に既視感を覚えたのだろう。おそらく、容姿にではない。ただ、空の何処か遠くを見やるようなあのまなざしが——
「そうだ、自己紹介! あたし、ビリーブって言います。あなたは?」
 つと、膨らんだ荷袋をがさりと抱え直して少女はそう名乗り、それからこちらに問うた。その言葉にはたとして瞬く。そういえば、まだ名を伝えていなかったのだった。
「マイロウド。マイロウドと言います」
「マイロウド! へえ、いい名前だね!」
 人懐っこさが滲んだ笑顔でそう発するビリーブに、ありがとうすら言うのも忘れて、心の中だけで首を傾げる。その言葉を、自分は聞いたことがある気がする。いいや、マイロウドという名をいい名前だと言ってくれた人は、今までの旅の中にも何人かいた。だから、聞いたことはあるのだ、確かに。けれども、それとはまた違う、何か違う意味で〝聞いたことがある言葉〟な気がするのだった。
「マイロウドさん、ちょっと訊きたいことがあるんだけどね」
「あっ、はい。なんだろう」
「旅人の小屋って、此処から近いところにある?」
 折れた柱に腰を掛けて、ビリーブはそのように訊く。自分も彼女につられるようにして腰掛けながら、それならばと自分が元来た道の方を指し示した。
「向こうの街道を真っ直ぐ行けば。迷う場所ではないですし、そこまで遠くもないと思います。僕もさっきそこから出てきたところなので」
「そっか! ありがとう。だったら、夜が来るまでには間に合うかな。あたし、自分の足には自信があるし」
「ええ、きっとそうだと思います」
 先ほどのビリーブの走りを思い出して少し笑ってそう言えば、彼女はぶらぶらと揺らしていた両脚を何か思い至ったようにぴたりと止める。
「そういえば、マイロウドさんはどうするの? その小屋から出てきたってことは、向こうの街を目指してる? あたし、街の方から歩いてきたんだけど、此処からだと向こうに着くまであと半日以上はかかると思うよ」
「近くに村とかは——なさそう、ですよね」
「うん。民家がぽつんと一軒だけ建ってるのは見たけど……人の気配がなかったから、留守かも」
「……じつは、この遺跡に泊まろうかなって考えてたんです」
「ええ?」
 言えば、ビリーブは自身が先ほど出てきた神殿跡の入り口の方へと顔を向けた。それから視線をこちらへと戻して、困惑と言うべきか、それとも呆れと言うべきか、何かそういった表情をする。
「危なくない? 遺跡荒らしとか、盗賊とか入ってきちゃったらどうするの? そもそもマイロウドさんって戦える……?」
「戦え……はしないですけど、一応、護身用の道具を持たせてもらっていて。えっと……」
 そう発しながら、足元に置いていた荷袋の中をがさがさと漁る。そこから硬貨入れを引っ張りだし、更にその中身を物色して目当ての物を引き出す。そうしてそれを夕暮れの光に翳し、なんとはなしにゆるりと揺らした。
「これです。催涙剤らしいので、これを相手に投げ付けてその隙に逃げようかと」
「マイロウドさん、足……速い?」
「ビリーブほどじゃあないですけど、たぶん、それなりには……?」
「……なんか不安だなあ。まあ、この辺りで盗賊とか悪党とかの話なんて聞かないから、だいじょうぶだとは思うけど」
 硬貨入れから取り出したのは、青紫と水色の間の色彩をもった液体が入っている、小さなコルク瓶である。高台の草原を出て、初めて硬貨入れの中身を確認したときにはすでに、この小瓶は袋の中に忍ばせられていた。瓶の口に括られた小さな厚紙には、〝催涙剤。中身をぶちまけろ。悪党退治用!(おれたちを除く)〟——との走り書きがされている。それを見てくすりとしながら、再びビリーブの方へと視線を向けた。
「……それ、使う機会がないといいね」
 ぎゅっと荷袋を抱き締めて、その上に片方の頬を押し付けながら、ビリーブがこちらを見てそのように言った。ゆらりと彼女の赤い髪が揺れて、夕陽の黄金を輪郭に纏う。
「そうですね。相手の人も涙が止まらないのは大変でしょうし……互いになるべく会わないのがいちばんいいかな」
「それももちろんあるけど、なんか、勿体なさそうにしてたから。それ、大事な人に貰ったんでしょ?」
「だい、……えっ?」
 想像もしていなかった言葉を突如として投げかけられて、夕方の風が喉に詰まるのを感じた。瞬くこともできずにビリーブから視線を外せないままでいれば、こちらを見ている少女の目が柔らかく細められる。そうしてみせた彼女の目の色は、その赤い睫毛が影になって優しげにも、また寂しげにも映った。それはこちらへ言葉を発した、その声色と同じくらいに。
「あたしね、大事な人を探してて。家族、なんだけど」
 家族。口の中だけで、その言葉をくり返した。ビリーブは顔を荷袋から上げると、柱のもう少し奥へと座り直しながら、何処か遠くの空を見る。透き蜻蛉たちはそんな彼女の視界を遮らなかった。
「生き別れの兄を探して旅をしてるんだ」
「生き、別れの?」
「うん。まあ、なんていうか、色々あってね」
 彼女に倣うように、青の混じりはじめた夕焼け空へと一度視線を向け、それから再びビリーブの姿を自分の視界に映す。擦り切れた浅縹色の革手袋に、ところどころほつれている駱駝色の上着を纏う彼女は、もう随分長いこと旅を続けているように見えた。そうして黄昏の空からこちらへと顔を向けたビリーブは、しかしそれでも、苦労を感じさせない快活さを以って笑う。
「兄さん……危ないこと、してないといいんだけど! そうだなあ……」
 言うと、こちらの背後の空を彼女は少し見上げて、
「たとえば——復讐、とか」
 と、微笑む。それはするりと指の間を落ちていくような、音のない笑み方だった。
 おそらく数呼吸分程度の沈黙。ざあ、と風が足元の草を一斉になびかせる音ばかりが、夕焼け空の下に集っていた。視界の隅に蜻蛉が少しだけ留まり、次に吹いた風に乗って此処ではない何処かへと去っていく。それをその茶色い瞳でひどく優しげに見つめた後、少女はこちらの目へと再び視線をかち合わせて緩やかにかぶりを振る。
「まっ、兄さんが危ないことするなら、あたしもそれに付き合うだけ——なんだけど」
「……止めたりはしないんですか?」
「うん、止めない。だってあたしも、ほんとはおんなじ気持ちだから」
 にっ、と悪戯っぽく口元を歪めて、ビリーブははっきりとそう言いきった。そんな彼女のことを言葉も発せずにじっと見つめていれば、ビリーブは少しだけ困ったように首を傾げる。
「変かな? でも家族なんて、案外こんなものだよ」
 そう呟くように言ったビリーブの笑顔は、ほんの少しだけほつれて見えた。沈みかけの陽に照らされて、それが身に着けているものの傷よりも浮き彫りになる。その後ろに伸びる影の中には、背負った剣の丸い石飾りが赤く光を落としていた。
「——に、しても。兄さんは何処にいるのかなあ。あたしの見立てでは、たぶんこの大陸にいると思ったんだけど。もしかして行き違いかも。あたし、明日は来た道をずうっと戻っていってみようかな」
「……え」
「うん?」
 彼女の言葉に、思わず困惑混じりの声を洩らせば、ビリーブもまた不思議そうにその赤い髪を揺らした。そんな少女の純粋な問いのまなざしを受けて、なんとなく視線を落とす。そうして手元の小瓶に指先を滑らせた。
「せっかく進んできたのに、戻るのかなって思って」
「まあ、そうなんだけどね。でも必要があるって思うなら戻るでしょ?」
「必要があると思うなら?」
「うん。それに、今自分が向いている方が前なんだから、進んでることには変わりないよ」
 顔を上げると、少しだけ得意げにそう言うビリーブの表情が目に映った。そんな彼女の顔につられて小さく笑いを洩らすと、ビリーブはひょいと柱の上から立ち上がって、荷物を抱えたままぐぐっと背を反らすように伸びをする。
「大事な人のためなら、元来た道を戻るのくらいなんてことない。へっちゃらよ! マイロウドさんはどうだろう?」
 朗らかに笑って、ビリーブはこちらの持っている小瓶のコルクに指先で軽く触れた。はたとして、再び瓶の中身へと目を落とす。硝子の中の液体は、夕陽に照らされてその青い水面に白と金の光を浮かべていた。大事な人、とその言葉を容易く口にもできず、心は更に不明瞭である自分は、或る魔女の言う通りなのかもしれない。自覚しておくべきな気がするから、あえて記憶に記そうか。自分はきっと、ものすごく面倒な心のかたちをしている、と。
 顔を上げて、ビリーブの目を見る。立ち上がった彼女は座っていたときよりも多く太陽の光を浴びることになっていたが、それでも神殿から出てきたときに比べればまだ易しいようだった。眩しさに多少目を細めていたビリーブの瞳と、こちらの視線がかち合う。
 その目の中に浮かぶ、斜陽の黄金を宿す光を見付けながら、声は洩らさずに笑った。たぶん、自分は今、自分自身に呆れるような表情をしている。
「それでも僕はまだ、向こうが自分にとっての〝前〟だと思うから。前に、進んでいきたいです。何か——何かが、分かるまで」
 これから向かうであろう方角、中心の街がある方、日の出る海の方——東を指し示しながら、自分に言い聞かせるようにそう発する。そちらの方の空はもう、三分の一ほどが夜の絵の具で筆を入れられていた。そして白く光る小さな点も、淡く、幾つか。
「きっと分かるよ」
 自分の言葉が絡まったような答えに、ビリーブはそう言って柔らかく微笑んだ。ほつれた糸を、再び編むように。燃えるようなというよりは照らすように赤い彼女の髪が、遠くから降り注ぐ光を吸い込んで、少しだけ夕暮れの橙のような色を帯びている。
「もしかしたら、ほんとはもう分かってたりして! ほら——気付いてることに気が付いていないことって、けっこうあるものでしょ?」
 それから一呼吸置いたのち、さてと、日も本格的に落ちてきちゃったことだし、と呟いて、ビリーブは両腕の荷物を抱え直す。とんとん、とその場で少しだけ足踏みをして、彼女はこちらを向いて明るい笑みを浮かべた。また縁があったら会おうね、と発するビリーブに、こちらこそと返事をしながら、そういえば透き蜻蛉たちがもうすっかり姿を消したことに今やっと気が付く。
「それじゃあ!」
 ビリーブはせっかく抱え直した荷物から片腕を離して、走り出すと同時にその手で大きく宙に弧を描いた。つられて立ち上がり、腕を大きく振れば、少しだけ後ろを振り返った彼女はどこか嬉しげに笑い声を上げたようだった。数度の瞬きの間に、彼女の背は目を見張るような速さでみるみる遠ざかっていく。
 そんな彼女の後ろ姿に、ふと思う。ああ、別れ際、もっと何か言えたはずだったのに、と。言葉が自身の心についてこなかったのだ、と。そのことになんとなく寂寥感と後悔を覚えていれば、ビリーブが思い出したように途中で立ち止まり、くるりと身体ごとこちらへ振り返った。そんな少女にびっくりして無意識に身体が強張る。
「マイロウドさ——ん!」
「はっ、はい!」
「マイロウドさんは——!」
 もうそれなりに遠く離れてしまったビリーブが、先刻出会ったときのように大きな声で言葉を飛ばしてくる。その表情まではよく読み取ることができなかったが、ただこちらを真っ直ぐに見つめていること、そして今、彼女が呼吸をしたことだけは分かった。
「何処に往きたい、ですか——!」
 その問いを受けて、少しだけ心臓が止まったような思いがした。
 何処に?
 何処に、往きたい? 何処までではなく、何処に。逆流するように再び動き出した心の臓に、胸の内だけでかぶりを振る。分からない。分からなかった。まだ分からない。分からないのだ。今はまだ。
「それが分かったら、そこに往って! 次会うときに、答えを聞くから!」
 ビリーブはそれだけ発すると、再びくるりと踵を返す。そんな少女の後ろ姿を呆然と眺めていれば、彼女は何やら上着の隠しに手を入れて、探しものを始めたようだった。存外すぐに見付けたらしいそれを、たいせつそうに頬の横辺りまで持っていく。首を少し傾けているから、耳飾りでもしているのだろうか。夜のにおいを纏った風が吹いて、彼女の赤い髪がふわりと揺れる。
 少女が顔だけでこちらを振り返り、きっと笑顔を浮かべているのだろう、もう一度空の中に弧を描いた。それとほとんど同じような挨拶をこちらも返せば、ビリーブは満足そうに再び揺らがない足取りで走り出す。
 そして、その右耳で、赤い光がちかりと瞬いた。
 それを目にした途端、思わず空を仰いだ。夏の終わりに見える星座と、秋のはじまりに見える星座が、向かい合うようにして空のてっぺん——夜が降りてくるところに顔を出していた。火のように赤々い髪、優しげな光を宿しながらも、どこか褪せ焦げたような茶の瞳、大きな剣、復讐という言葉、焼ける空の中へと去っていく姿、そして何より、此処ではない何処か、空の遠くを見つめるようなあのまなざし——何処まで往くのか、何処まで往きたいのか、何処に、往くのか。
 心の臓の在る場所へと手を当て、夜の気配と風のにおいを感じるように瞼を閉じる。
「……あなたなら、きっと会える」
 目を開けて、星と星を自分にだけ見える線で繋げた。今、空には様々な星座が顔を出しつつある。
 吹く風は、自分の言葉を連れて、日の沈む方へと去っていった。


20190519 
シリーズ:『マイロウドの手記

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