厄介者の巣窟

4月19日
朝からホテルバイト。

通勤時間帯の電車は、新卒時代を思い出して苦しくなる。まだ寝ていたいのに、やりたくない仕事なんかしたくないのに。しかし、これはどうしても『単なるわがまま』にしかならないので、熱気に負けそうになりながら現場へ向かった。

始業時間5分前に最初の会場へ着くと、私以外の人影が見当たらない。近くにいた社員に挨拶をし、
「ミーティングってみなさん集まってからですよね?」
と尋ねると、社員は笑った。
「今日この会場のスタッフはもちづきさんだけだよ」

冗談だと思って私も声を上げて笑った。が、本当らしい。
といっても20名くらいにお弁当やお茶を出すくらいしか動かないし、ほとんどはバックヤードでお食事の際に使うナフキン折りの内職ばかりだったのでたいそう楽だった。
むやみに人と関わらなくて静かだし、これはこれでいいかも……などと思いながらナフキンを折っていると、突然背後から「わっ!!」と背中を叩かれた。
仕事中だというのに「うわぁ?!?!」とめちゃくちゃリアクションしてしまったが、まじでびびったんだ許してくれ。ばっと振り返るとそこにはコック服姿のおっさんが立っていた。

「びっくりした?」
おっさんはチュッパチャプスを舐めながらけらけら笑っている。
「ええ、すごく」
へらりと笑いながら答えると、おっさんはさらに嬉しそうに笑った。
「アメ舐める?」
とバチボコ舐めかけのチュッパチャプス(色的にソーダ味)を差し出してきたが、食い気味に「いらねえです」と愛想のない返しをした。それでもおっさんはまだ話しかけてくる。
「学生?」
「彼氏いるの?」
私が慈愛の精神と人を愛する気持ちに溢れるよくできた人ならすべて正直に答えるだろうけれど、あいにくそんな親切心は微塵も持ち合わせていないので返答の面倒くさくなさそうな『現役大学生』という虚言をした。あと、親戚のおじさんでもあまり答えたくない恋愛話はすぐ切り上げたいので「いないっすねー」とこちらは嘘ではないがさらりと回答。
「えー学生ならいっぱい恋愛しなきゃ!」
「君笑顔いいし、モテるでしょ?」
うるせえおっさん。私は他者と関わるのが苦手なんだ。特におっさんみたいなグイグイくるポジティブさんがな!
「はは……でも仕事が好きなので」
当たり障りのない、それでいて『これ以上恋愛話はごめんだ』とわかる返答をしてこの最悪なラリーを終えようとした。
「そうかなー?恋愛っていいぞー!きっとまだそういう男に出会ってないんだな、『この人とだったら死んでもいい!』って思えるような男にさ。ていうか結婚したいとかないの?結婚しちゃえば楽じゃない?必死になって働かなくても生きていけるし」
おうおう、おっさんよくしゃべるな。恋愛マスター気取りかよ、さぶいなぁ。あと『女は好きな男と結婚したら楽だし幸せ』っていうステレオタイプもいいところな考えもさぶい。ますます、このおっさんと話すことが嫌になってきた。
「まだ死にたくないから、きっとそういう方も見つからないんでしょうね。働くことは楽しいし、結婚したらしたでママ友コミュニティとか姑との関係とか旦那の嫌なところに目を瞑るとか、自分の唯一属する小さな人間関係が嫌になったらそれこそ精神的に死にますからね。そういう意味でもまだ死にたくないんです。」
数時間前まで『働きたくねえ』しか考えていなかった人間の発言として信用されないと思うが、そのときはこれが私的ベストアンサーだった。
おっさんは「うーん、なるほどねぇ……」と納得しきっていない態度で相槌を打ち、自分の仕事に戻っていった。

夕方からは別会場で、どこかの協会の立食パーティーのサービススタッフをした。
いろんな企業の社員が集まっているようで、あちらこちらで歓談や名刺交換が行われている。配布用のドリンクをトレーに乗せながら会場内を歩いていると、ひとりの会社員が話しかけてきた。
「ねえ、お嬢ちゃん」
あ、地雷だ。
私は知っている。スタッフの女にこう声をかけてくるやつはだいたいやばいことを。
「はい?いかがいたしましたか?」
あくまで仕事なので、にっこり営業スマイルで返事をすると、おっさんリーマンはこう続けた。
「お嬢ちゃん、そのトレー持って会場回るでしょ?今から一周して、胸元の名札にさ、○○(会社名)って書かれた人いたらどこにいたか教えて」
先に忠告しておくが、スタッフにそんな業務はない。
名刺交換するならてめえの足で稼げよ。
私のこの考えは正論だと信じているが、間違ってもお客様にそんなことは言えないので、「かしこまりました」と返事をして一周した。ただ、本当によく探してもその会社の人が見つからなかったので、そのおっさんの元へ戻り「見つかりませんでした」と伝えると、
「えー本当?」
「○○って会社名だよ?○○」
となぜか疑われた。信用できねえならてめえで行けって。
正論を言えない私は泣く泣くもう一周するのであった。

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