haLuna(作詞家・歌手)

もの書き。本業は歌うたい、と言い張る(仕事になっているのは作詞)。文字と音が好きなので…

haLuna(作詞家・歌手)

もの書き。本業は歌うたい、と言い張る(仕事になっているのは作詞)。文字と音が好きなので、音楽と校閲ウーマンとライターやってます。万年筆。うさぎ。石。もふもふと生きたい。

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ぼくたちはかなしみのままで

 不安を緩和するクスリはあっても、  かなしみを取り去るクスリはないんだ。  窓のカーテンのすそから差し込む光をぼうっと眺めながら、ふと、そんなことを思った。  喪ってしまったものは二度と戻らないし、また喪うことを想像すると明日を生きることすら怖くなる。  ニュースは非情にも、すでに起きてしまったことを伝える。  そんなことが、もう起きてしまって、ことはすんでしまったのだと。  だれかが泣くのを見るのは、つらい。  昨日との断絶を経験することがある。  かなしみになっ

    • 思うところあって、久々に舞い戻ってきましたよ

       ここ2年くらい(ちょうどコロナ禍に入る前くらいからかも)、なかなかエネルギーを割り振るのが難しい日々がつづいていたのですが。  すっかり浦島太郎です。  まずは機能のおさらいを……と思ったら、だいぶアップデートが進んでいたようで。それをチェックするところからの再スタートです。  そんなわけで、体裁等おかしいところが出てくるかもしれませんがご容赦を。  ちくちくと調整していきます。 あまりこだわらず、無軌道に。  なにごともそうなんですが、自分になんとなく「縛り」が出

      • あの、驚くべきことに、数ヶ月ぶりにnoteを再開してみたら、下書きがまさに50もあった さすがに笑う

        • 痛みの多い人生を送って来ました

           久しぶりに、湯船に浸かっていたら、ふと思いついたことがある。  わたしは手応えの感じられないものに、あるいは興味を失ったものに対して「続ける」ことが苦手だ。それは昨日も書いた。  だが、その「続ける」の得手不得手は他者の時間軸を基準にした評価にすぎない。  やめてしまったもののうち、あるものは(一般的にはどうであれ)「もう十分にやり尽くした」と判断したものかも知れないし、またあるものについては「やめたのではなく、休んでいるだけ」なのかも知れない。  それを一律、型に嵌めて

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          また毎日noteしてみよっかな

           最近になるまで、自分はどちらかというと飽き性ではないほうだ、と思っていた。  どちらかというと……どちらかというと……一度ハマるとずっとアホみたいにそれを続けていられる性格だと、信じていた。  それは生まれてこのかた、やめたことがないものがひとつあったからで、そのたったひとつのことによって、自分の性質というものをすっかり見誤っていたらしい。  noteの預かり金に期限ができたよと報せが来た。noteの預かり金、振込期限まであと一週間だよと、また報せが来た。  そうしてや

          また毎日noteしてみよっかな

          書くことが、めちゃくちゃ好きかというとそうではなかったのかもしれない

           と、最近思う。  書くことは呼吸することだと信じていたし、「続けられるかどうか」という一点においては正直、勝算しかないと思いながらnoteをはじめた覚えがある。  自分は渡り鳥だったのだなと思う。  何かしら書くことは止めないけれど、その時その時によって書きたい場所が変わる。書きたい相手が変わる。文体やカラーが変わる。  場所が変わるからカラーが変わるのか、カラーが変わるから同じ場所で書けなくなるのか、それは鶏か卵かって感じで、どちらともいえるし、どちらでもないともいえ

          書くことが、めちゃくちゃ好きかというとそうではなかったのかもしれない

          霹靂⑴

          「坂口さん、入院したって。あんた、聞いとる?」  その女子が声を掛けてきたのは、隣にわたしがいる時をわざわざ狙ってのことだったのだろう。  昼休みのベランダは、春先の陽気な気候も相まってか、いつにも増して人気が多かった。  眼下のグラウンドには、ありあまるエネルギーを全力で発散する男子の姿がみえる。高校なのにまるで小学校のようだと思う。だが嫌いではない。  もっとも、わたしたちはのようなインドア派はせいぜい眺めるでもなく眺めているだけで、あとはお喋りするでもなくお喋りをして、

          書を聴く

           最近、オーディオブックを聴くのにハマっている。  それも、ビジネス書や自己啓発系を片手間で聴くのではなく、もっぱら小説などの物語系を聴いている。  聴くタイミングは決めていて、幾つかある仕事のうち、「文章を書く系以外」の作業をしている時だ。  なので、たいてい平日にしか聴かない。週末は聴くタイミングがなくてもどかしいが、家族がいる家でイヤホンをして過ごすのも気が引けるし、なによりたまには耳を休ませないといけないという思いから、平日の仕事時間中のみで我慢している。  そんな

          明日

           散歩したい。  川べりを歩きたい。  天気はどうかな、  水辺は好きだ。なんとなく落ち着く。  森も好きだけど、それはどちらかと言うと水を湛えた気配がするからだ。  それに気がついたのは最近だけども。  バタフライ・エフェクトだ。  私が一歩動けば、ピタゴラスイッチ的になにかが変わる。  なんだかそんな気がする夏。

          ともだちについて

           わたしにはともだちがいる。  最近は、ときどきしか言葉を交わさないし、毎回何時間も会話が続いたりすることもない。  誰からともなく声をかけ、そのたびに生存確認のようなやりとりをして、またそれぞれの日常に帰っていく。  多くを交わさずとも知っている。それぞれが、それぞれの苦しみの中にもがいていること。  そして、その苦しみを持ち寄ってなお、ともに喜びあえる心を持っていること。  友というのは不思議なつながりだ。  頻度でいえばとことん減らすこともできるし、疎遠になるのも

          ともだちについて

          ものぐさが高じて、って言わないで

           遂に、人間をダメにする環境を作ってしまった。  これまでは、仕事は仕事部屋でと決めていた。いや、仕事に限らず、ベッドにノートPCを持ち込んだらゆるさないからね(意訳)と家族には言われていた。  いかにもやりそうだとはじめから思われていたものだから、ノートPCを買った時にしっかり釘をさされた。  しかし聞いてくれ皆よ、これは決してダラ思考からじゃあないのだ。  仕事が立ち行かないのだ。  この一年ほど、訳あって(としておこう)、起き上がることそのもののハードルがかなり高

          ものぐさが高じて、って言わないで

          尖ったものを、尖ったままで

           noteを再開して数日になる。  歌も言葉も、なんとなく長いこと寝かせている期間が続いて、余計なもの――人がどうであろうと、自分にとって、余計であると決めたもの、がリセットされていることをほんのり願いながら、書いている。  わたしは尖ったものを尖ったままでテーブルに出すのが怖かった。わたしのアイデンティティの原型はそこかしこに棘を持っていて、それが他人や、自分を傷つけていくのが怖かった。  棘が飛び出さないように、ていねいにやすりをかけて、ついでに造形を整えて。  わ

          尖ったものを、尖ったままで

          揺れたくない

           ことに、揺らぎと変化に弱いことは昔から自覚している。  ある種、悪意や中傷や攻撃よりも、内側から揺さぶられるものの方が怖い。つまるところ、わたしはわたしのことがいちばん怖い。  始末の悪いことに……。  人の手が届かない。救いは自分自身しかない。夜よりも、朝の方が残酷だ。  人々の日常とのコントラストが最も強くなる時刻。  この、根源的な空虚は薬で埋められるものじゃない。  安住の地も愛も希望もそこにあるのに、わたしの内側はときどき激しく震えだす。  この病理をずっ

          ことばに濾しとられたのちに残るもの

           一年前の自分は、他人。  どうやら、「いま」にしか生きられない人間のようなのだ。  幸か不幸かわからないけど。  昔、自分の書いた日記は二度と読み返さない、読み返すのが恐ろしいと思っていた。  その時その時の最大瞬間深度の闇がそこに詰まっていそうで、蓋をしたら二度と開けられない、開けたら大変なことになるような気がしていたから。  だけど、媒体を紙からwebに変えて、それなりに綺麗にまとめることもおぼえて、それとなく見返すようになると、まるで他人事のように読めてしまう自

          ことばに濾しとられたのちに残るもの

          そろそろふと紡ぎたくなって

           ひさしぶりに、noteアプリを開いてみた。  嘘か誠か、「2秒前にバッジ獲得」のお知らせが目に入る。  なんと、たまたま開いたこの日がnoteはじめて2周年なんですってよ、奥さん。  良い勘してますね。  生きてるんだか死んでるんだかわからないけど生きてます。なんて書く人に絶好調な人はいない。  低空飛行といえば低空飛行が続いている、そんなここ一年ほど。  そもそも、noteを更新しなくなった直接のきっかけは、古傷をほじくり返して埋めたまま閉じちゃった棘を取り除くべく

          そろそろふと紡ぎたくなって

          noteに恋して、noteと懇ろになり、あるときnoteを捨てて、また思い出したように言い寄る

           そんなプレイボーイみたいなことをしているなと思う。(すごい、今日2日連続更新じゃん!)  noteを始めるまで、自分は息をするように言葉を綴ることができるたちだと思っていた。書くネタに困るということはなかったし、上手い下手は別にして、気づけばいつでも指が動いて思いのままにひとつづきの文章を完結させることができた。  それも、続ければ続けるほど、精度も解像度も上がっていく。日々すこしずつ、植物が目に見えないような速度で伸びながら内部で細胞分裂を繰り返すように。noteと出

          noteに恋して、noteと懇ろになり、あるときnoteを捨てて、また思い出したように言い寄る