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悪魔の証明

 (心にとって)しずかなよるが、戻ってきた気がする。今日は書ける。
 そういう状態は予感めいてわかるものだ。

 おかえり

 なのか、

 ただいま

 なのか。

 こういう夜は眠るのがもったいなくて。
 そうきっと私は明日をもとめていなくて、明日を待つ夜だけがやさしい世界だと感じている。
 明るみに出なければ、なにもかもは希望のうちに終わる。幸せに暮らしました、めでたし、めでたし。
 明日なんて望まないことの方が多いし、そういうことばかりが起きるのだと学んできてしまっている。

 学んだ、といっても、それを正しい答えだなどと思っているわけではない。
 ただ、根づいてしまったものが強靭で、そして、それ以外の景色をまだ知らないだけなのだ。
 誰が悪いわけでもない。ただの偶然。もちろん、私が悪いわけでもない(表面上は)。


 生まれて初めて出席した葬儀は幼稚園のとき。面白くてひょうきんで、私のことをとても可愛がってくれたおじさんが亡くなった。彼はガソリンをかぶって焼身自殺をした。
 人が死ぬのはテレビの中だけだと思っていた。葬儀に出かける前、冬の制服を着せられて支度をしている時、そのことを口にしたら叱られた。

 小学生のとき、親友のお母さんが、お父さんを殺してしまった。バレンタインの日に友チョコを渡しに行ったとき、後ろでくすくす笑いながらそっと見ていたお母さんだ。私はあまりのことに、彼にかける言葉もなかった。ちょうど私が転校した直後であったこともあり、その頃はまだSNSのようなツールもなくて、そのまま連絡が取れなくなってしまった。

 その後もいくつも、私の周りには自殺や殺人がおきた。いつしか、母親にまで「あんたのまわりはそういうことばかり起こる」と言われるようになった。暴力の被害者になることもあった。私は犯罪被害者としても、加害者関係者としても事情聴取を受けてきた。


 きまって、なんでもない朝にその報せはやってくる。
 日常はいとも簡単に壊れ、奪われる。何度だって。


 私は次のカウンセリングで、いったいなにを話すのだろう。初回は、こんなことを淡々と、他人事のように話して終わった。「よく生きてこられましたね」と言われても反応のしようがなかった。誰だってその立場になれば、それでもなんとか生きようとするだろう。心を閉ざすのも鎧をまとうのも、さほど難しいことではない。

 ときどきこのnoteでも(昨日のように)半分、別の世界や時間軸に生きているような感覚を垂れ流してしまうけど、人が現実と呼ぶものが、私にはわからない。経験がないから、わからない。
 必ずしもそれを不幸だとは思っていなくて、ことこの息苦しい社会に生きるには、それは鎧としてじゅうぶんに機能をしていて、過分でもない。それくらい、今の社会は生きにくさを孕んでいる。皆生きやすく生きたいはずなのに、互いを縛って生きにくくしている。なんと皮肉なことだろう、とは思うけれど。

 ただ、「ない」をどうにかすることは難しい。私にはこういう経験があります、という言い方はできて、それをなんとかすることはできても、私の中に「ない」ものを探し出すことも、それを解決することも、まるで悪魔の証明のように難しい。

 世界は、こわくて、おそろしいもの。そういうものだと捉えたままそれなりに社会に接し、それなりに順応してきてしまったからなお悪い。
 ときどきそういう虚無が自分の腹に大きな穴をあけたままでいることに気づく。


 サバイバーってなんだろう。自分ではちっとも「生還」した気がしない。未だその影響の真っ只中にいる。奪われて捕われたままの不自由さにさえ気づかないほど、その渦中にいるということなのだろう。


 数年前、父が亡くなった。生き別れて一人暮らしていた父は孤独死して3日ほどみつけてもらえなかった。猛暑の余韻が残る9月。
 死化粧を施されて数十年ぶりに対面した父は、年齢よりもずっと年老いて見え、すっかり老人のような姿をしていた。

 子は親の死に様に自分の未来を見る。弟が「俺、死ぬのが怖くなった」と呟いた。その気持ちは痛いほどわかった。
 あのときのことを思い起こすたび、父の部屋に入ったとたん鼻をついた強烈な死臭がまっさきによみがえる。人は死ぬとああなる。見つけてもらえない人間は、悪臭を放ちながら崩れる物体になる。頭がよくて柔和で、かっこよかった父。


 今は、昔ほど「身の回りに不幸が集まる」ようなことはなくなった。子どものころに比べれば、周囲の人々も、その気質もずっとおだやかでやさしくて、生きるように生き死ぬように死ぬ人びとに囲まれている。
 天寿を全うした人の和やかな葬儀も経験した。悲しみ悼みながらも感謝して送り出す姿も見てきた。

 それでも、こんな夜や朝方にふと感じる、自分という体の内側にある魂のかたちは子どものころと全く変わっていなくて、相変わらず自分はこの安寧のなかにいてふさわしい人間ではないような感覚。それゆえに、刹那的にしかものごとを捉えられない自分。だって明日また、世界は変わってしまうかもしれない。私から大切な人を奪ってしまうかもしれない。

 そして私もまた、あの強烈な悪臭を放った有機物にほかならないのであり、命の袋が破れて崩れてしまえば同じ道をたどる。私の内側はあれで出来ているのだ、と。今日、すこやかな熱をもって呼吸し代謝しているという事実が、あまりに脆くてあやういのだと、感じずにいられない。
 いっそ、「そうだよ」と言ってくれれば安心するのに。

 「そんなことは、ないよ」は、悪魔の証明だ。

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