独自のやり方

新マガジン『動的平衡の社会学』イントロダクション(方法論編)

勉強とかでなくとも、何かやろうとすると歴史や伝統にはぶち当たる。

音楽だってファッションだってパンクやヒップや名前が付けばスタイルになる。

型を学ぶのは楽しくもある。

けれど、家元とかが現れると途端に重くなる。

古式ゆかしいとかならいいんだけれど、特定コミュニティへの参加資格だとか、会費とかって話になると胡散臭い。

とは言っても、勝手にやるってのにも限界がある。

どうするか?

全体から入る。

「何か面白そう」。

この「何か」を追究する。

型は必要。

でも、目的はあくまでも「何か」面白そうなものの探究。

謙虚な姿勢は必要。

パーフェクトは無理と弁える。

正確な計測をウリにしない。

量子とか一粒一粒計測なんて無理だから。

大事なことは、正確に計測しようがしまいが、私たちの触れる現実はとあるパターンをもって現れる、つまり、全くのデタラメ、カオスではないということ。そうしたとあるルールのようなもののおかげで、私たち人間は混乱少なく生きることができているということ。

パターンの源となる仕組みを解明できたとしても、究極的には私たちは既存のパターンを有効活用させていただくしかない。

間違っても、私たちの力だけでパターンを創り出せると考えてはいけない。

思い上がり。

ここ。微妙なので注意が必要。

ウソも方便ではあるけれど、積極的にウソを競わせることはない。

人間オリジナル制作のパターンなんて存在しないのに、そっちの方がウケがいいという理由だけで、「このパターンさえ押さえておけば万事OK」みたいな、あたかも世界のとある一部でもコントロールできるかのようなウソを競うべきではない。

スタートは動的平衡。

バランスがとれて見えるのも、アンバランス同士がダイナミックに関わり合っている結果。

アンバランス同士とはいえ、各々にはパターンが内包されている。

であるからこそ、関わり合いにもとあるパターンが現れる。

パターンの出現はいろんな要素に影響される。

時間経過、力関係、相性、偶然、etc.

社会関係の分析では、まず力関係にセンシティブであるべきだろう。

平等なんてない、というのが大前提。

等式から入らない。目指さない。

常にアンバランス。

面白そうな何かもアンバランスであるからこそ感じられる。

問題は、いつまでも面白いと言っていられるか?

アンバランス同士がバランスとって見える時、かなり高い確率で強制力がはたらいている。

平等じゃない。

その仕組みを微細に微細に見ていく。

言葉はそのための貴重なデータであり、ツールの一つでもある。

言葉のルールも含め、ルールやパターン自体に正義はない。

既存のパターンをどのように活かして強制力の強いルールにまで仕立て上げられるか?は、生まれ落ちた状況の違いなどで全く初期条件が異なるわけだから。

ルールを見つけたら、不平等を疑え。

ルールの強制を正義(例:公平中立)だと強弁する勢力にこそ、パワーインバランスの調整を真っ先に検討させるべきだ。

我も我もと正義の方に乗っかりたいという気持ちはある。誰にでも。

大事なのは行き過ぎないこと。

あんまりにも安定的で、間違いのない方法に出くわしたら、ちょっと違和感を感じるぐらいが丁度いい。

何も速攻で離脱しようとしたり、既存の仕組みをぶっ壊そうとまではしなくてもいい。

ただ「うーん。ちょっと楽し過ぎかな??」ぐらいの疑問は持ってもいいだろう。

安心安定の独り占めはいかん。安定(動的平衡)はみなで創り出しているもの。

目先を変えて、「おいらだって別に完全に安定なんてしていない」とか言いたくなる気持ちもあろうけれども、現実を見つめることが第一。現に享受している安心安定について考える。この先どうなるか?分からないのはみな同じ。

議論のすり替え(現在から未来への視点のすり替え)はかなり卑怯な手だと覚えておこう。

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Hakushi Hamaoka

動的平衡の社会学

私たちの社会を構成する関係性は全て非対称で非平衡。「社会を分析する」とは、動的平衡のプロセスを精緻に観察することから始められるべき。
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