最近あんまり考えてない

んだけど、考えていることは、やっぱり”ことば”について。

妻は息子に数学得意になってもらいたいと、せっせと算数の問題を解かせているけれど、数学って一体どんな学問なんだろう?というのが私にはよく理解できていなくて、よって、それが得意になるという状態がどんな感じなのかもよく分からない。

「既に分かっていることをよく理解する学問」とも聞く。

あとは厳密な論理の積み重ねかなぁ。

論理的思考。

私は”ことば”の運用を通してしか、これは身に着かないんじゃないか?と考えている。

ことばの意味というのは変わっていくし、文法といったって絶対的に不変の規則というわけでもない。例外は結構ある。

そげな曖昧なものでも、いや、曖昧なものだからこそ、厳密さにこだわる。

辞書もマメに引くし、「それって文法的に正しいといえるんだろうか?」と疑問に思えば調べてみる。

日々のことばの運用というものは、まずそういった厳密さなんてさておいて流れていくものだし、それはそれでいいと思う。

これまた、だからこそ、何か拠り所となるようなものは必要なんだと私は思っている。

厳密に厳密に、、、と恐怖政治を敷くのではなく、一体全体どういう仕組みでもって大した苦労も感じないで意思の疎通たらいうものが可能な感じになっているんだろう?とふと確認したくなった時の知識のストックのようなものかな。

数学もできないよりはできる方がいいだろう。

ただ、「数学ができる」ってことが、哲学的なものに繋がっていて欲しいとは思う。

人間が生活している世の中のあれこれについての理解が深まるように。

ことばが先か数字が先か?

多分、人間の生活のみに限定されないという意味で、数字の方が普遍性は高いんじゃないか?とは思う。

実用性はともかく、ことばもその気になれば数式で表せたりもするんだろう。

けれども、そうすることで私たち人間がことばについての理解を深めることができるか?というとそうとも限らないと思っている。

ことばに限らず、数式で表すということは、表されるとある状態がほんの一瞬ではあれその状態を保っているはず。

ことばの曖昧さというのは、そういうカベを越えて行くことができる。

ところに威力があるのではないか?

コミュニケーションとっている当人同士、互いによく分かっているわけでもない、まだ見ぬ状態について、なぜだか”意思疎通”できてしまう。

大概の場合は調べ上げれば実際過去に既に起こったことなどが下敷きになっているのだろうけれど、そんなことを知っていようがいまいが私たちの日々は流れて行く。

数学でも何でも、知識と呼ばれるものを極めようとすればするほど、そうした深い考えも理由もないままに、社会生活を営んで、歴史を残していく人間の有り様について、ワンダーを覚えたり、肯定的に評価できるような。

そんな論理的思考。

日々のことばの運用に沿って、そんな思考回路が育つ方法ってないんだろうか?

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Hakushi Hamaoka

動的平衡の社会学

私たちの社会を構成する関係性は全て非対称で非平衡。「社会を分析する」とは、動的平衡のプロセスを精緻に観察することから始められるべき。
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