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呪われた作戦

絶対悪を名指しして「自分はそれには属していない」とする方法

はっきり言うと、私たちには絶対悪なるものは断言はできない。

それは神さまがいるかどうか?を証明できないのと同じこと。

絶対的なものは善だって悪だってわかりゃ苦労はないのだ。

私は哲学問答には興味はない。

ただ人間が人間を人間らしく扱うことができるかどうか?が問題だ。

絶対悪なんてこの世には存在しないものでも、言い掛かりをつける対象は実在の人間たちだ。

「別に特定の誰かを指してなんかない。」

呪われた作戦の実行者としてはそんなところだろう。

でも、そんなことで安心してはいられないのだ。

絶対的な何かを想像する時、人は幽体離脱を敢行する。

普通想像は私たちをそれだけで変えてくれるけれど、絶対的なものというのは私たちを更新してくれない。

夢の責任「10:0(じゅうぜろ)」(10が他者で私はゼロ)。

このあり得なさを体感できなくなれば、元の体に戻ってこられなくなってしまう。

ファンタジーじゃないよ。現実。

こんな呪われた作戦もある。

「絶対善を騙りさえしなければ十分謙虚である。」

よくある勘違い。

私たちは誰一人として勝手に物差しの終端(絶対善とか絶対悪とかゼロ(無)とか無限も)は決められない。

普通一人では決めようなんてしない。気の合う仲間と徒党を組む。でも、何人集まっても、どんなにおエライお方を取り込んでいようとも、物差しの終端は片っぽだけだろうが決められない。

そこに全く違和感を感じないというのは。。。ゾンビの群れだね。。。肉体感覚を失っているという意味で。

肉体感覚を失った者が、人間を人間として扱えるのか?

おそらく無理だろう。食い物にはできても。

私たちが崇め奉るべきものは、絶対的な何かではない。果てしなくあやふやなもの。

最も現実感のあるものは私たち自身の肉体なのだけど。。。

いつ離脱したやら分からないぐらいだからね。。。

それでも、とりあえず肉体に執着することは必要そうだ。

そして自らの肉体ですら所有は不可能であることをまず知る。

崇めるならばこの所有不可能さの感覚。

畏れてもいいけど、受入れて、完全に自分だけのものでもないけれど、「責任持つ」と決めることの方が大事。

BlessingとかGraceとか。

自他の区別なく降り注いで欲しいと願うような気持ち。

善にしても悪にしても何にしても、決まったもの(ゴール)がない以上どうやったら頑張れますか?

私は、自他共に、そんな何も決まってない世の中を、無事であれば何年も生きていかなければならない、いたましくも愛すべき存在だと認めることだと思っています。

絶対悪に絶対善。何のかんのと勝手に決めたつもりでいい気になって、「みんなのため」などと嘯くような人間だらけでは、、、未来はないよ。

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