知識の民主化は礼儀の正しさ

つつましやかさ。

学んで学んで学んで、、、群れない。

理解したことを出力したい気持ちはある。

カタチにすると実体感が強くなる。

学んだ成果ってやつ?

カタチにしておけばたくさんの人にも読んでもらえる。

理解したことを出力することはいいことだ。

でも群れるのとは違う。

群れる場合、読んでもらう人に強制力がはたらく。

「群れがオーソライズするように読め」

そういった力関係上のアンバランスをなくすことは不可能。

不可能ゆえに常に注意が必要。

アンバランスがあまりにアンフェアになり過ぎないように。

「私は理解しています。」

それを知り得るのは”私”のみ。

周囲にオーソライズしてもらうという手は一般的だけれども、それで十分ってことではない。

他者目線は無視しろってことでもない。

どちらかというと「これでもかっ!」というぐらい考える。

でも所詮それは”私”の想定と結論する。

つまりはどこまで”客観的に”他者の考え、感情などなどを分析したつもりであっても、それはあくまでも”つもり”と弁える。

「おまえらのゆーとーりだよ!」ではない。

それじゃケンカだ。

「モノゴトの客観的な理解」という課題に限っても、理解したことを正答集などに頼っていてはいけない。

なんで?

答えは変わらないじゃん?

正答集が言おうが、先生が言おうが、私が答えようが。

でもダメ。

誰が言っても同じであればあるほど、「”私”が理解している」ということの意味が増す。

それもこれも、自分自身の理解の唯一無二性を知る、というだけではなくて、他者には他者の、唯一無二の考えるプロセスなるものがあるはずだ、というリスペクトを醸成するため。

相互尊重なんて一朝一夕には成らない。

地道な積み重ねによってのみ可能になる。

「こんなことも分からないんか?」

そんな態度から相互尊重なんて生まれるわけがない。

相互尊重が実現しないというのも残念なことだけれども、「正しい側にいる」と信じている方が、そうなるには力の不均衡が背後にあることになど全く気付かない、ということが、社会の安定にとってはイタイ。

強きは弱きを挫くのよ。放っておけばね。

群れない強さ、つつましやかな理解、というのは大事。

でも中々ものにできないというのが私たち人間に関する真理、真実。

「そんなの分かってるやい!」

だと全く進歩がない。真理の意味が活かせない。

真理というものはね。

黙ってそこにいてくれて、それで終わり。

誰がアクセスしても同じ。

そんなもんじゃないのよね。

群れる性質、根拠なく数量に依存するいい加減さ、目に見えない理解のようなものは何とかしてカタチにして確かめたいと願う弱さ。

そういう真理とともに私たちは生きる。

何やったって付きまとってくる。

それが真理。

「分かった」とか言ってあたかも処理済み事項のようにして外に放り出すなんてできないのよね。実際。それで済ませられると錯覚したままでも生き続けられるってのも、これまた真実ではあるけれど。

すごいでしょ?

人間の空間創造(想像)力って。

かなり柔軟に内外分けて、合わせて責任も仕訳けて分離する。

物理的な法則やら制限やらを全く完全に無視しているわけでもないってところがスゴイ。

って当たり前か。

人間ったってモノからできているわけだし。

モノの振舞いの集積としての人間について知るということも、人間性を知るにあたっては必要なのかもしれない。

けれども。

多分特別な機械とか計測器とかがないと無理って意味で、知識の民主化の観点からはさほど重視されるほどのことでもなかろう。バカにならないんですよ。計測に必要なエネルギーって。機器の製作費なんかも含め。

「人間として生きる」ということの意味(肯定的な意味、幸せ)についてまず考える。それも分からないで、病気とか治せて長生きできて何かいいことあるのかな?

そんなの考えるの面倒くさいからとりあえず医学とか発展させるのか?

ふーん。

生きるってもっと大変なことよ。科学的探究が全てじゃない。

で。

大変だからこそ大事に生きる。

そういう段階を踏まずして、ただ「ともかく命あってのものだね」とか言ってると、いつまでたっても命自体を大切に扱うことができない。

あー。

全部救うのは無理。

とかいって見捨てても平気な人が、命を大事にしているとかって言えますんですかね???

適当に想像で線引きして色分けするのさ。私たちって。(例:救うべき命、なくなっちゃっても仕方がない命)

そういう真理に気付きもしない、ならまだいいけども、敢えて目を瞑ってさ、正義なんて語って欲しくない。

沢山知識を持っている?想像(創造)力が豊か?それが何なのさ?

自分たちに関わる真理について知りもしない、知ろうともしないのに?正義??笑わせるよね。

神の領域、人間の領域とか適当に設定してさ、自分だけ神の方に近付いた、とか勝手なこと言わないで欲しいよね。アナタはアナタ以外の何ものにもなれはしないでしょう?

私たちは普遍的な正しさに憧れるし、そんな夢の世界について結構具体的なイメージも抱く。普遍的な正しさを夢に描いてしまうなら、どんな命に対してだって義務も負う。

ええとこどりは不正義。不道徳。

だからしんどい。

だから生きる価値がある。

あまりにしんどいからええ加減でよしともする。

そりゃ途中経過でそんなことはいくらでも起こる。

でも「ええ加減」にすることについては、途中経過といえども、自分のしたことと受け止めねばね。

それで即刻死ねとか言わない。

そんなんじゃ責任負ったことにもなんないしね。

いい加減でボロンボロンで、それでも生き続けるのさ。捨て鉢になることも許されずにね。

笑っちゃうぐらいしんどいのよ。真面目に理屈を突き詰めれば。

すかして「極めちゃった」とかタバコふかすような輩にゃ、それが全く理解できていない。

勝手に線引きして色分けすることがいかに残酷なことであるか?

じきに徒党組んで正義のお化けを創り出してその上に胡坐をかこうとする。

既に旧約聖書の時代から偶像崇拝の危険性として示されておる。

でも21世紀の今になっても人間たちはそれが何のことか意味が分からない。

未開人向けに発せられた警告だ、ぐらいに思っている。

愚かなことだ。

折角の真理が全く活かされていない。

学ぶなら、学んで知識を得たと言うのなら、態度で示してもらいたい。

群れない態度。

アナーキズム。

答えは常に自分自身が下す。

それもこれも全て相互尊重を実現させるため。

始終群れちゃってちゃあ分からないでしょ?いつまでたっても。一体”私”が理解していることって何なのか?それが分からないのに、他者の何かが理解できるとか?甘く見ちゃいけませんね。私たちがこの世に存在する仕方を。

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Hakushi Hamaoka

動的平衡の社会学

私たちの社会を構成する関係性は全て非対称で非平衡。「社会を分析する」とは、動的平衡のプロセスを精緻に観察することから始められるべき。
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