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海外放浪記(21世紀編)

こんにちは。

アナーキスト濱岡です。

アナーキストと聞くとむっちゃ引かれそうなので、あまりこう名乗ろうとは思いませんが、私の放浪癖を振り返るに、内面はアナーキスト。どころか、ありとあらゆる人々にもこれを広めたいと考えているところ。。。やっぱアナーキストかなぁなどと考えています。

それはさておき。

21世紀になってこの方、私日本には2年少々しか住んでいません。

諸事情あって住民票もない状態がかれこれ15年ぐらい続いています。

社会人時代、出張がキライであったように、また、短期の旅行(国内海外に関わらず)があまり好きでないことから、あちらこちら動き回りたいと思ってこうなったわけではありません。

会社を辞めてからは、ただ、次何したいかな?と、それに従っていたら結果的にこうなったということなのです。

そもそも辞めようと思ったのは、開発協力の分野の大学院に行きたいと思ったから。

私がその会社(団体)を辞めて後、同輩・わりと近い世代の後輩たちの多くは休職して留学、という方法を採っている通り、私もそうする選択肢もあったのですが、戻って仕事するために留学したいわけではなかったので、あと、気持ち的にすっぱり別れた方がいいな、お互いのために、というのがあったので。

とはいえ、1年弱という短い留学期間(英国だったもんでマスターは1年で取れるんですね)後、元の会社ではなかったものの、開発協力の職場に戻ったわけですが。

その場所は再びのザンビア。

社会人編では、私のその後に大きな影響を及ぼしたと思われる1回目のザンビア生活についてほとんど何も触れていませんでしたので、このあと、2回目のと合わせてお話させていただこうと思います。

同じく社会人編で語り切っていなかったことが、日本なるものとの距離感。

日本という今の状態の国(現代の国民国家としての日本)で日本国民とされる人々なら、まあ日本人だよな、というセッティングがいかに稀有なものであるか?それが日本で暮らす人々にどのような影響を及ぼしているか?

そんな話ができればと考えています。

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ザンビアという国に3年弱と2年半ちょっと計5年半ぐらい住んでみて、私が感じたことは「人類皆姉妹兄弟(ジェンダーセンシティヴに)

当時はまだごく漠然とした実感でしかなかったけど、ポルトガルでドクターの勉強をしながら得られた意味は、「誰もが運とか偶然、たまたまというコントロールし切ることはムリなものと直面させられながら生きているんだな」ということ。

まあそれってなにも人間だけじゃなくてね、この地球上に生きる生物はおろか、宇宙に存在するありとあらゆる物質だって同じことなんだけどね。

人間って他の生き物とは比べもんにならないぐらい先読みするじゃない?

先読みするのもやめられない、かといって完全予想はムリってのは中々ツライ。

完全はムリだけども結構な正確性でもって予測できちゃうこともあるってのがこれまたツラさを増幅させる。できるはずなんじゃない??完全も???いや。やっぱムリ???みたいなね。。。

そういう弱い部分ってのが無理に隠されている。

言葉の問題にしてもそう。

日本人は概してコンプレックスを持ちがち。

克服した方が勿論いいんだけれど。

隠し立てなんてしなくてもいいんじゃないか?

しんどいし。

無駄な労力。エナジー消費?

礼儀という面でも望ましくなかろう。

礼儀正しさってもんには率直さというのが非常に大事だと思っていて、人間、意外と率直になるのが難しい模様。

出発点は自分のことね。できること/できないこと。そのままどんどん発展させていいもの/できれば克服した方がいい弱点。。特にそれぞれの後者。

自分自身のことなんで、当然全く何も知らないわけじゃあない。

だからこそ、日々の交流の場面では、上述の前者を前面に出したいし、そうではなくとも、後者には触れずに(触れられずに)過ごしたい。

何事もWin-winで済めば最高だ。お互いムリにマイナスに触れなくて済むならそれでOKじゃん?

まあそんな感じで私たちの日常は多かれ少なかれ率直とは言い難いものだ。

率直でないからといって必ずしも無礼ともいえない。

それでも、いや、だからこそ、率直さというのはとっても大事なんだというのが私の考えるところ。

大事大事というと、現代人は表に出して示さなきゃならないと考えがちだけれども、日常的に表面を取り繕う私たち、かつ、取り繕うといったって全くの善意である場合だってたくさんあるのだし、率直さを行動や言動”だけで”証明するなんて無理なんだろう。

そもそも、”証明する”なんて行為こそが、率直さの対極なんじゃないか??

証拠に丸投げ 或いは、証拠投げつけ

ってヘンな言い回しかな???

言葉のコンプレックスに話を戻して考えてみよう。

私は、「コンプレックスはあるかもしれないけれど、隠し立てはしなくていいんじゃないか?」と書いた。

ドヘタなまんま放置していいとは考えない。やはりより滑らかにコミュニケーションが進む方がいいし、例えばネイティヴの立場に立てば、文法も発音も正確に話してくれる人に出会えばかなり安心感が違うだろうから、それらの点を全く無視していては平和は訪れまい。(大げさかな。。。)

ただ、どんな言葉にせよよっぽどの天才的才能にでも恵まれていなければ、ある程度迷惑かからん程度であってもそこまで上達するにも結構な時間がかかる。況やネイティブ並みなんて。。。(注:私の息子のように、外国で生まれたりしてそこの言葉も日本語と同様ネイティブ、とか、帰国子女などのケースは、個々人の才能とはほぼ関係ないと思っている)

テクがまだまだではあっても、ともかく使わなければならない場面においては、使うしかないのだ。

使えばそれなりに上達もする。

それ以上の努力となるとそれは個々人の裁量に任す、でいいんじゃないだろうか?

ところで、コンプレックスというからには、使わなければならない場面で使えない、或いは、使おうと思い切るまでの障壁が相当デカい、というような状況が多々あるのではないか?

思うに、それって、現代社会における英語に特有な気がする。(フランス語もそういうところあるかな???よう分からんけど。しゃべれんし。なんとなくね。。。)

何故か?

ネイティブでない結構ちゃんと話せるスピーカーがむちゃ多いから。

例えばザンビア。

英語はザンビアの公用語であるからして、私の仕事の主な相手方であった官僚たちでなくとも、結構誰でも普通にしゃべれる。”識字率”といったとき、対象とされるのも英語だ。

でも。

私はザンビアの人々を英語ネイティブであるとは思わない。

アフリカの国々では割りと事情は似ているだろうけれど、多くの人々は生まれた瞬間は公用語なるものは知らない。最近は事情が変わってきているけれど、多くの場合、小学校に上がっていきなり英語を、というか、、、英語で勉強を開始する。

つまり、部族語というか、まあ、ネイティブな言葉は公用語以外にある、というのがごく普通。

”公用語”といってもお堅い場面だけでなく日常的に使われるから、それなりの年齢になればほぼなんの支障もないほどに英語は使える。部族語もたくさんだし、移動も多いしね(必ずしも部族語の地元で生まれ育つとはかぎらない)。英語があった方が便利って側面もある。

ただネイティブではない以上、ネイティブなるものへの距離が多少なりともある。

そういう距離の大小(長短?)って潜在的にでも気になるものだ。

特に非ネイティブ同士。

あー。あの人は近いな。とか。遠いな。とかね。。。

まあ細かいことはともかく、ネイティブではないってことはみんな知ってるわけさ。ネイティブでなければね。

Mind Your Languageっていうコメディが昔あったらしいけど、あれが笑えるのって、別にネイティブたる英国人だけってわけじゃなくて、非ネイティブだけど客観的には結構喋れる人々も含まれていると思うのよね。

いわゆる「あるある」ね。

その中でも、なぁんだか日々気になっていること。必ずしも他者の特徴やクセだけじゃなくてね。自分自身日々抱えている”不安”のようなもの?「あー。多分こう見られてるんかなー?」とかいうものね。知らんわけじゃあないけど、あんまり触れて欲しくもないようなもの。

なんだけど。

人間ってそういう、日常の大半は面と向かって指摘されたりはしない、できればされたくないマイナスの(と想像している)特性・特徴って、Comedyみたいな形で現わしてもらって、どわっと笑ってもらえる(そして自分も笑う)と、ちょっとストレスがリリースされるもんなんよね。

まあ最近はね。ああいう番組は不可能やろうけど。うるさいじゃん?差別だの特定民族蔑視だのとね。。。勿論そういうものを煽ってしまうTV番組や映画ってあるし、注意はしなきゃならないとは思う。Mind Your Languageがそうとは思わないけどね。

あーいうもんでちょこっとコンプレックスみたいなもんを軽くしてもらってね、日常をできるだけ率直に過ごせればいいんだけどなー、などと思う次第。

「証明」って率直さの対極では?という疑問にも答えず、延々非ネイティブ言語にまつわるコンプレックスの話をしてしまったけど、やっぱり率直さって証明するもんではないんだと思う。

じゃあ何?

自分が今現に面と向かっている人。その人に向かう気持ち。

恋人同士でもなければピンとこないかもしれないな。。。

ではこう言ってみるとどうだろう?

みなまで言ってしまわない。言ってしまおうとしない。言ってしまえると思い込まない。

そこに想像してくれる他者がいるという現実。

その現実を踏まえてパフォーマンスする。

予め他者からの反応やら評価を決め付けない。

平たく言えば、相手の人に思いっ切り自由に(率直に)振舞ってもらいたい。なぜなら、その方が自分のためだと思うから。

そんな気持ち。祈りに近いかな。

コンプレックスとか短所とか弱点とか、、、そういうの、別にあって当たり前じゃん?

私は偉そうに外国生活長いと言ってるけど、未だに英語も大して喋れない。特に日常の何気ない会話。挨拶のそのちょっと先?

母語の日本語でも、アドリブ的な場面では、思い付きで言葉が出てくることもあるってな程度なもんで。。。そもそも喋りがダメなわけ。言語に関係なく。つまりは”しゃべりコンプレックス”か。

それでも、どうせ母国語の日本語でも大して喋れないんだからってわけでもないけど、外国語で喋ろうとする時のカベは異様に低い。

おそらくそういうのも影響しているんだろう。

ザンビアではよく現地語(ニャンジャとかベンバ、トンガにロジなど)を教えてくれようとした。

それで簡単な挨拶ぐらいできるようになると、主に英語で会話するにしてもすごく場が和むのよね。

というわけで、自分のコンプレックスがどーのこーのより、出会う人たちとの関係重視。

伝えたいことがお互い伝わらなければ関係重視とは言えないわけだけど。。

確たる情報を(言語的に)正確に発信・受信し合うだけがコミュニケーションではないと信じてるし。

相手にかける迷惑はなるべく少なく済むように、かつ、自分の方がよりプレッシャー少なくお稽古できるようにね(そうしないといつまでたっても上達しない)。そういう環境を整えるのがいいんじゃないか?というのが喋り能力の劣る自分にとっての現時点での結論。

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だらだらとコンプレックスの話で字数を費やしてしまった。。。

「自身の弱点に対して率直に」なんていうと、あたかも自己反省みたいな感じが強くなるけど、私が言いたいのは、そうするのもできるだけフランクなレスポンスを相手方からいただくため。その方がお互いのためだろうと思うから。

自己反省なんてさ。。。満足できたとしたってその人だけのことじゃん?

その点、まずは相手に可能な限り自由になって頂いて、そうして出て来たものの方がこっち側にとっても非常に有益だと思うのよね。

あとは何でもかんでも「十分証明し切ったことやから」みたいなのを根拠に正しさであるとか正しい理解みたいなもんを個々が主張し合うような有様ってほんと救いがないと考えていて、そのへんもちっとどうにかならんのか??ということ。ずっと考えてます。

これは「行動で証明」とかいうのも同様ですね。

私が日本人だからってだけではないとは思うけど、もう少しつつましやかさってもんがじわーっと浸透しないもんか?とは思いますね。

長くなり過ぎてしまったので、日本的なるものについては、続編に回すこととしたいと思います。

(全く”放浪記”じゃないな。。。我ながら。。。)

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