自由と責任を巡って考えたこと(悩)

私は21世紀に入って間もなく辺りから、世の中から責任感なるものは消え失せていしまっていると感じ始めた。今もってかなり確信に近い。
ただ、それについて否定的な言説を流したいとは思わない。
そこで私が縋ったのがいわゆる社会科学的な手法であったのであるが、、、。
ジレンマというかアイロニーというか、、、。
社会科学的手法にこそ、責任感なるものを喪失させる(負の)ポテンシャルが潜んでいるらしいと気付いてしまった。
「ポテンシャル」と言ったとおりで、単なる手法なのだから、要は使いよう。何も負の効果のみをもたらすと決まっているわけではない。
とはいえ、各々独立した個々人が、客観的事実を調査し、検証・確認を行い、合理的に語る。
この一見何ら誤謬のない方法に内在する強制力は、人々から自由を奪い、もって責任感をも喪失させる。
「〇〇をしない限りにおいて自由」
これを”否定的自由”と呼ぶことがあるそうだ。
相当な素っ頓狂でもない限り、いつでもどこでも無制限に自由に行動していいんだなどとは思うまい。
自由を謳歌するにしても、一定の制限は受ける。いやむしろ、とある制限については積極的に受け入れるからこそ自由なるものを享受できる。
どう転んだって何らかの制限は受けねばならないなら、そいつが予め分かってりゃ(できればほぼ無意識に弁えて行動できるようになってりゃ)ほぼ自由じゃん???
要するに、自由を求めるばかりに、制限の方にばかり知力が注がれる。
「知力を注ぐ」という行為自体は何ら悪行でもないし、むしろ積極的に推奨されもするだろう。
でも待てよ???
「これさえ気を付けてればいい」なんて制限、、、そんな簡単に定義できるものか?
ましてや、ほぼ無意識に気を付けて行動できるようなマスター様になんてなれるのか?間違いなく、マスター様はごく少数派に過ぎないだろう。いかにシンプルかつ数少ない制限であったとしてもだ。
”否定的自由”という言い方も一理ある。
数多くの人々は、マスター様の下、社会の階層に従って生きさせられてしまうのだ。
自由???
どこにそんなものが???
ただ、ホンモノのマスター様は極少数であったとしても、それに割と容易に追従できる(マスター様の言っていることが理解できるし、まあまあ間違わずに行動できる)人々ってのはいるし、そういう人々は階層の上位に位置付けられるだろう。そして彼らにとっては、自由なるものも、マスター様がお決めになったルールに従わなければならない(つまりそんなに自由じゃない)としても、がんばれば手に届くようなものではあるだろう。
世に生きる人々が持って生まれたものや、生まれ落ちた環境なるものは様々なのであるからして、感じられる自由度が人によって違ったって不思議ではないし、全員が全員すべからく同じぐらいの自由度を感じられるように、なんてのは到底不可能なお話だ。階層化社会の何が悪い!?いい悪いのお話ではなくて「しゃーない」んじゃないのか??
私も「しゃーない」とは思う。社会の階層化。
とはいえね。
原則としては、だぁれも、自分以外の人間に向かって、それがどんだけ分相応で間違いなかったとしても、「お前の階層はここね」なんて決められない、決めるべきではないと考えている。
だって、、、選べないんだもん。「しゃーない」ってほどに階層化はなくならないんだから。
下層から上層への上昇について、可能性が全くないとか、努力をしてはいけない、などということではない。
現に今だって、(下がる人もいるだろうけれど)上がる人もいる。その人の努力(や巡り合わせなど)で。
そういった上下移動が現に起こっている事実も全部ひっくるめて、社会は階層化している。
「しゃーない」ってのはそういうこと。
そんな「しゃーない」ものだからこそ、どういった階層にいようが移ろうが、誰だって自らが置かれているらしい階層(或いはスペース)について、納得したりしなかったりするぐらいの自由は持てて当然だと私は思う(階層なんてものは全く考えないってのもありだと思うけど、その場合はそもそも階層化が問題にならない(階層なるものからは自由))。
尊敬やら尊厳やらの大仰な言葉なんていらない。
「分からんことに口を出すな」というと乱暴過ぎるけど、こと、個々人のこと(性格や資質や思想信条に時々刻々移り変わる心情などなど)については、自分自身のことに集中すべきだ。いくら他人と似ているところがあったって、私たち一人一人は唯一無二。クローンを作ったところで全く同一の個人が二人以上できるわけではない。自分自身の唯一無二性はしかし、何のために気付き、愛でるかというと、日常生活で出会う自分以外の人間の唯一無二性を尊重するため。
特に、いくら善意だからって、自らの提言で他者を引き上げてあげようとか、励ましで上を目指させてあげようなんてことして、「ええことした」なんて思ってちゃいけない。
「ええことした」と思いたいなら、その他者がどういう過程を踏もうが、いかなる結果が出ようが、その「ええこと」をし続けることだ。思い通りの結果が出ないからといって、「こいつはアホや」ってことで途中で見捨てたりしてはいけない。
唯一無二性と言うと大仰に聞こえるけれども、より具体的に言うならば、「避けがたく誰にでも降りかかってくる制限に対するその人なりの反応の仕方」。これぐらいは誰だって全く自由で構わないじゃないか。
既に述べた通り、どんな人間にだって何らかの制限はかかるのだから、最低限の自由といえば、制限のない世界やどんな制限だったら最小限といえるかを追求するのではなくて、「来るもの拒まず(本当は拒めないんだけど)」の大らかな構えでもって、いかなる制限も好きなように解釈するぐらいのことならゆるされる自由だと私は思う。
自由なるもの、積極的に制限を受け入れることによって享受できる、なんて一見格好よさげなことも最初の方で言っておいた。
格好よさげだけれども、制限なんてなきゃない方がいいに決まってる。いくら「誰もが何らかの、、、」といったってね。積極的に受け入れなんて、別にやったっていいけども、世間に向かって「俺たちゃこんな高度で難解な制限も理解し遵守し行動できてるぜ!」などと威張りたいだけならよして欲しいものだ。
つまるところ、私たちが生まれてこの方死ぬまでその中で生活してゆく各種制限(自然環境から文化慣習そして法制度などなど)というものは、完全に理解し、予見性を高め、もって自由という名の楽園へといざなってくれる鍵でもなければ、ただただ黙って耐え忍び、従っておれば一定の安全を保障してくれるシェルターというわけでもない。むしろ制限とは、自由とともに一枚のコインの裏表を成すものなのであるからして、間違っても飼い馴らせたから自由を謳歌できるだの、受容し我慢しているのだからいくばくかの自由をゆるされるだのふれ回ってはいけない。そういう言説は、性質(たち)の悪いウソだ。
”性質が悪い”というのは、冒頭素朴な疑問を呈した通りで、”否定的自由”というのは、「これさえ守れば義務は果たせたってことであとは自由」とか、「みんなが守ってるルール守れへんねやったら、面倒みてもらえんでも仕方ないなー」とか、まあどんどんどんどん制限の種類だけでなくて、”守り方”まで決められて、お陰で守れる方もそうでない方も、全くもって無責任化してしまうという点。
なんでかというと、みんながみんな、「もうそういうふうに決まってることなんでしょ?」と考えるようになるから。
議論の余地なし?
あきらめ?
そこに責任感などあるはずもない。
制限なんてさ。なんぼ万人共通に従うべきものであったとしたって、受け止め方は違うわけだ。同一人物にとってみたって、時と場所が異なれば、すんなり従えたり、そうでなかったりもするだろう。
加えて社会は避けがたく階層化するわけだし、上の方は、たまたま自分らが守りやすいルールだから守れてるってだけ。それに気付かないばかりか、そういったルールをあんまりすんなりとは守れない多くの人々にも「当然守らないかんでしょ?守れるでしょ?」みたいなかんじで押し付けていてもそうしていることに全く気付きもしないのが普通。
普通なんだからまあ変わるわけはないでしょう。その傾向は。
世の中に山とある制限について、間違い(違反)と正解(遵守)がオートマチックに決まる。
なんて楽ちんなんだろう。
そういう方向に私たちは必ず流れる。
間違うのは誰だってイヤなもんなんだけれども、間違いったって、一つ漏らさず間違いと糾弾されるわけではない。
「この間違いは無視しといて、先に進んでもOK」とかいうものも、むちゃくちゃ膨大な量ある。
そういう実践的でフレキシブルな対応というのは、特定の一人が決めているわけではなく、基本は二人以上の人間の関わり合いの中で決められる。
なので過去から引き続く経緯、蓄積された実績やパワーバランス(避けがたく階層化された社会)にも勿論影響される。
特にパワーについては、あたかもオートマチックに流れているかのような時の方がより機能している(パワー関係に影響を受けている)。
ならば、より考えてみる価値があるのは、“あたかもオートマチックに”流れている(何のコンフリクトもなく関係者が皆一定のルールに従って行動している)からといって、決してオートマチックなんかではない、ということ。
そこを「オート(自動)」と思っちゃあ、、、関係する人々に対する感謝の気持ち(日頃から間違いを見逃してくれてありがとう)なんてまさか湧かないだろうし、いざ間違いを糾弾されちゃえば、自らの責任がどうこうよりも、間違いの糾弾合戦に陥るのがオチだろう。
合理的に考えるなら、私たちは誰一人として間違わないことはない。
何一つとして見逃してもらったことなんてないって人間もいない。
「間違わない」「間違っていない」と思いたい。
そりゃ間違わない方がいい。
でも「何について?」を常に予め正しく言い当てられるか?というとそうとは限らない。というか、言い当てられないでなんとなく社会の中で生活しているって方がデフォルトだろう。
そういった様を、注意が足りないだの、合理的分析でもって言い当てられる能力を高めようだのと否定的にばかり見るのはどうなんだろう?
誰もがとりあえずなんとなくでやっていくしかないんだから、否定的に見るんであれば、そりゃ自分自身のことだけでしょう。他人の「なんとなく」なんて何がどうなっているか分かりますかね?分からないのに何がよくて何が悪いかなんて言わぬが仏でしょう。
他者の間違いに気付けるような人間、確証を持てるような人間が為すべきは、そいつらの間違いを指摘したり、実証したりすることではないだろう。間違いに気づいた以上は、そのメカニズムを調べ、同じ間違いが起こらなくなるまで面倒みなきゃ。客観的事実に基づいた合理的な分析は、そのために必要なだけだ。
何度も何度も同じ間違いをするってバカにする。怒る。
あのさー。
同じ間違いだって分かってんなら予防策立ててあげなよ。
「やつらの責任」とかウソこいてラーメン食ってんじゃないよ。
間違いって分かってて何もしないなら、そりゃあんたの責任やろ。
何をすればいいかまでは分からないってんなら文句は言うな。分かるまで考えたまえ。
この世に責任から解放される自由なんてものはない。
自由と制限とは常に相対的なものであるのだから、責任ある態度というものは、両者の最適バランスって一体どんな風なの?とコミットし続けることだろう。
責任を果たして得られるものが自由でなければならないというのなら、その自由なるものは、自分自身へではなく、実質他者へと向かうのだろう。やつらがどんな自由なやり方で間違ったって自在にルールを調整し、改編し、創設してのける能力。
夢だね。
ただ、「何かから解放される自由」なんてものを夢見るよりはマシに思える。
ここまでやったからOKとかさ。。。
何点とったからセーフとかさ。。。
たまの息抜きならいいけれど。
そいつを責任とか義務を果たした(やるべきことを成した)みたいなとこまで広げられるのはかなわんよ。
できないのはやつらの責任、、、とかって続くんだろうし。。。
制限にしても、それを違反しまくるやつらにしてもどんなものが来ようとも前向きに立ち向かえる状態でいられること。そう努めること。
責任ってなそんなかんじのもんじゃないのかね?
自由ってのも、ありとあらゆる理不尽に直面してさえ、固まってしまうんでなくて、どうとでも動けるって感じのたくましさみたいなもんなんじゃないか?
現状を不完全・未完成のものと見て、ありもしない完全さを夢見る。
夢もいいけど、人生ずっと眠りっ放しってことはあるまいよ。
“解放”とか“自由への道”とか言えば聞こえはいいけれど、目の前の現実を見ず、そこから逃げようとする“逃げの自由”だとも言えるのではないかい?
夢なんか見ないよ。現実たる日常をコツコツ生きとるだけよ。
こちら方面の方々はさ、たまに、コツコツさせてもらえてる事実ってものを見つめ直した方がいいよね。
コツコツをバカにしてはいけない。
日常の小さな出来事を大切にしています!?
さあ。
それが本当かどうかはすぐには分からないよ。
「わたしゃこれ以外やんない」ってことの口実になってないと言えるかい???
どんな小市民であろうとね、現に生まれてこの方生きてこれている以上、なぁんにも使命感のようなもんを持たないのでは、小市民なりの責任だって果たしているとは言えないのよ。

ま。長々と書いてきたけれど、自由を考えるにせよ、責任を考えるにせよ、キーワードは「個々人って一人じゃない」ってことかな。

私たちはそれぞれ個体としてはまあ独立してはいるけれども、地位やら出自だけでなく、才覚や性格にしたって一人ぽっちで決めたりはできないだろう。ひょっとしたら、私たち一人一人の顔面だって、置かれた環境で違っちゃうんじゃないか?

ましてや時々刻々下す決断が十分に合理的であったか?なんて。。。

さらに言えば、何に興味を抱くか?何を欲するか?だって自分ひとりだけで決められると言い切れるだろうか???

こうした日常的に起こっている他者との関係性について、気付けというのはほぼ無理な話。

一定の期間内に一定の成果を挙げねば死んじゃうとか思う人間が多い世の中ではなおさらね。。。

しかし現代の歴史が示している通り、ここまで多くの人間の、個々人なるもののイメージの仕方とか、現世利益を追求しないではいられない様子などが、単一のパターンを描いているのであれば、なんか対処のしようがあるような気がするんだけどなー。。。

うーむ。

分からん。。。

やっぱ中途半端にヒューマニティとかが介入してくるからとちゃうんかなー?全く進歩しないのは。。。

そりゃどんな極悪に見える人間だって、人情のかけらはあるだろうし。。。そこは否定しない方がいいんだけどね。。。

どっちかってーと、一見して「それぐらいならしゃーないんちゃう?」と多くの人がゆるせちゃうようなエラーね。その辺のプロセスよね。余計なヒューマニティ由来の正当化が介入しがちなのは。。。”余計”ってのはね。。。まあ端的に言えばオーバーなウソ。そこまで必要ないって感じの。

まあなんやかんやと知恵を絞って言い訳はするわけでね。。。それがなるべくおっきな社会的害悪にまで陥らない。そんな方策。

その辺に注目してなんか方法がないか考えてみるか。。。

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