告白は自己内対話とはいえない

自己3面説

自己って意外に難しい。

あってないようなところがある。

私が好きなのは3面説。

他者から見た自分。自分が想定する他者から見た外形的私。他者の目にどう映っているか?他者の主観についての想定。
自分に関する客観的事実。情報源は自分が観察する他者(など)に関する様々な性質など。それらに基づいて、自分自身の客観的性質などをカテゴライズしたり名付けたりする。
これが最もホンモノっぽいと自分自身で信じている(やすい)自分。

ご覧の通り、3面は結構ぐちゃっと混じっている。きっかり区切られている感じではない。

まあそれも当たり前。

自己なんて一体何が実体なのか?なんて分かりゃしないから。

とはいえ最後の自分がないと、多分一番目、二番目もない。

というと最後のがあたかも根源、始原のような印象を与えるかもしれないけれど、順番も特にはっきり決まっているわけではなくて、3面がぐるぐる回りながら自己像なるもの、固まったり、ちょいちょい変更されたりするのかな?と思う。

「自分って他者の写し鏡」みたいなミステリアスなことは結構頻繁に言われる。

まあ自己像なるもの自他関係の中から出来上がっていくもの、との理解でおっきな間違いはないだろう。

この3面説に基づくなら、告白ってのは自己との対話ではない。

実在の人物なのか、空想上のキャラクターなのかはさておき、それに向かって話す。或は、話を聞いてもらったつもりになる。

これって案外バカにできない。

ひとときの安心を得るという意味で。

「信仰告白」とかいうアホな発明をした人々がいて、結構根付いてしまったってのにも訳がある。

結局自分のあれこれなんて分かったようで分からないところが消えないわけだから、あんまり突き詰めても仕方がない。

なら。

できるだけ簡便に「こんなもん」って言える何かを持っておけば、日々の生活の中で折々疑問に思わされても、或は、誰かから「アンタナニモノ?」とか問われても、そんなに困らずに答えられはするだろう。

この簡便さにとって最も大事なのは、時と場合によってあんまり違わない答えが返ってくること。

結局四六時中自己とは何か?なんて考えるわけじゃないので、必要な時にある程度決まった答えは準備しておきたいということ。

「信仰告白」というのは神さまとか絶対的な存在に対して、「私間違っちゃってますよね」とか話しかけて、「うん」とか「それでも生きなさい」とか言ってもらった気になっちゃうやつね。

要するに、おエライお方で、そのお方が下さるお答えについては、基本さらに疑っていくことはしない。

お答えの内容よりも、答えを返してくれるもののエラさ、普遍的威力みたいなもの。お答えをいただく側からすれば有無を言わさず絶対服従する気持ちになれる存在であることが重要。

答えを返してくれるものをそこまで信用できるなら、どんな答えが返ってこようがあたふたしなければならないような事態に陥る可能性も極端に低下する。

面倒くさくない。

ただそれだけ。

理屈なんてどうだっていい。

というと合理的理性の現代人は、自分たちには無縁の、文明化以前の未開人を想像し、自分らは違う、と思いがちであろう。

が。

自己3面説の2番目を見てもらいたい。

自分に関する客観的事実。情報源は自分が観察する他者(など)に関する様々な性質など。それらに基づいて、自分自身の客観的性質などをカテゴライズしたり名付けたりする。

合理的理性をあまりに信奉し過ぎると、自己像なるもの、この客観的事実の集積たる自分のことに違いない、と信じ切るようになる。

つまり、3面ぐるぐるの自己内対話がほぼ意識されなくなる。(注:私たちは3面ぐるぐるを自己の意思で止めたりはできない。)

何故そこまで合理的理性が好きなのか?

簡便だから。

それに依存する限りにおいては、きっと安定的な答えだけが返ってくるはずだ。

そうならないのは客観的・批評的な見方、実証的な見方が不足しているからだ。

理性こそが王者だ。

そうやってサブミットすべき存在を定め、そいつが安定的な答えを下してくれると信じている。つまり、安定的な答えを欲しい欲しいとせがんでいる。

それが合理的理性に依存する人間性の正体。

3面説の2番目に極端に意識が偏るというのは、はっきり言って、「信仰告白」と理論上の違いがない。

ただ、拠り所にする情報が、わりときっちり実証的に検証されたりするということで、無批判に神さまみたいなものに服従しているのとは違う、という印象が得られるだけ。

3面説の一番目と三番目を考慮に入れるのはただただ面倒くさい。

他者の主観なんて。。。わざわざ確証の得られない要素を取り込むのは愚かしくも思えるだろう。

いやでもさ。

3面はバラバラでもなければ、くっきり仕分けられていないと言った通り。

そもそも二番目に限ったところで、「それホンマに客観的事実に基づいてんのか?」ってのは、個々人の判断だからね。記憶なんかにも依存するし、自分のことを表現するのにどのデータを選定するのか?とかも含めとっても恣意的。客観性とは真逆になってたりする。

3面の自己内対話ってさ。別に内向的に自分の世界に閉じこもってなさいってことじゃない。

真逆。

人々と良好な関係を築いていくため。

告白みたいな簡便さだけじゃうまくいくわけないのよ。

面倒くさくても丹念に取り組む。

自分はナニモノ?付き合う彼女(彼)らはナニモノ?

問い続けることこそが愛であり知的活動である。

小難しそうな心理学やら社会科学上の様々なコンセプト持ち出して、社会問題を議論して、賢げな振りするのが知的活動ではない。

知識とは、私たち人間のこの世に存在する仕方。

これを丸々愛すること。

それが知的活動。愛知。

この高邁に過ぎると思われる理想に向かって行くためにも、自己3面説は非常に有力なツールであると私は理解しています。

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Hakushi Hamaoka

動的平衡の社会学

私たちの社会を構成する関係性は全て非対称で非平衡。「社会を分析する」とは、動的平衡のプロセスを精緻に観察することから始められるべき。
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