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みにくいのみなもと

おそらく英国と思うけれど、オーストラリアに入植して間もなくの写真で、アボリジニーたちが鉄球付きの鎖でつながれて座らされていて、横にサファリ帽・スーツっぽい衣装で(ライフル?)銃を手にした白人が写ったのを見て、「動物扱いだな」という衝撃を受けた。

我が同胞は先の大戦中、中国、朝鮮、フィリピンなど、アジア諸国の人々をかなり乱暴に扱い命も沢山奪ったことが知られている。現場に居合わせたわけではないのであくまでも私個人のイメージでしかないのだけれど、こちらの場合は同じ人間と認識しつつ、明らかに格下と見ていた感じがする。

この二つの例には、時代が違うというのもあるけれど、白い人たちと日本人のマインドセットの違いが現われているように思える。

白い人たちはある意味強い。でもその強さとは、自分たちのとある側面を、全く存在しないものとすることによって得られている。つまり、実際はフラジャイルさを常に抱えている感じ。

日本人の場合は、気付いてはいる。自分たちが弱い存在であるということを。気付いているというよりも、白人との比較でいうならば、すっかり無視なんて技法は身に付けていない、という感じ。

この違いが「動物扱い」と「格下人間扱い」に現れている。どういうことか?

サルもカンガルーもアボリジニーも人間ではない、という認識が可能なのは、私は認識する人でしかないから。主体と客体が明瞭に区分される。主体はその目にする世界を認識する。人間とは認識していたかもしれないけれど、首手足を鎖で繋ぐのも、銃で威嚇するのも、そうする必要のある対象であるとカテゴライズされるなら彼らを躊躇させるものなど実質何もないのだ。

格下人間扱いはそこの区分が曖昧だということ。ある意味他国人を下に見ながら、その「下」っぷりを自分の中にも見ているといえる。或は、このように説明した方が分かりやすいかもしれない。自分たちも「下」と見られてなぶられる姿が想像できる。何故なら、他者を「下」と見てそのように扱う姿ってどう見えるだろう?ということは気になってしまうから。気になってしまう以上「下」は何の疑念もなく他者にだけ帰属させておくことは難しい。その自らにも帰属させ得る「下」っぷりを痛めつけ、成敗する。どうしても「動物扱い」ほどのはっきりとした区分けはできない。こちらの醜さは、気付いていながら自らの「下」っぷりに向き合えない弱さ。潔くなさ。

「動物扱い」というより残酷な方が潔く見えてしまう矛盾。この潔さはさらに驚くべきことに、既存のカテゴリーに入ってさえいれば躊躇なく利他的仕草、さっと援助の手を差し伸べられる、という効果をも生む。型通りで、決して心の底から他者を対等な者として扱ってなどいなくとも、パフォーマンスを見る限りにおいては善であるし、援助を受けられる側にも実利はある。受け手側が精神的な侮辱に気付き自尊心が傷付けられることはあっても、反抗する機会が奪われてしまう。少なくとも即時的、短期的には。

白のシステムが地上を席捲するわけだ。強いものが勝つ。勝ったものが正義。

個々人の内心に巻き起こる曖昧な感情など取るに足りない。

事物は客観的に見ればよい。

パフォーマンスとして善行と定義されるならば、内心の動機などは問わないし問われもしない。よって定義された規範通りに振る舞っておればよい。

こうして地球に生息する人類は、そろって何の葛藤もない善行パフォーマンス・マシンと化す。

本当にマシンになれるならいいんだけれども。。。

なれない以上個々人は多かれ少なかれダメージを抱えることになる。

非常に発散されづらい葛藤。

相互の人権尊重を叫びながら自己の内心の真実を尊重することができない矛盾。

できていないことをあたかも存在しないものであるかの如く扱うようなウソというのは相当醜い。

ウソにはどうやら気付いていないようなので、法律用語的善意ととらえるべきなのかもしれないけれど、いつまでも過剰な(行きがかり上致し方ないとはいえないような)殺戮(テロや戦争、レイシズムにドメスティックバイオレンス)を止められないことについて、全く責任を感じないというのは「仕方ない」と見過ごせる限度を超えている。せめて何もできていないことに悔いぐらいは感じてもらいたい。

あなた方が拠り所にすべきなのは、宗教的伝統を引きずっているに過ぎない勤勉さなどではない。自分の頭で考えていると信じたいならその信念に誠実であるべきだ。パフォーマンスなどカタチにして見せなければ何も変わらない。それは間違いない。けれども、どういった内心的動機でそれらをものするのか?はカタチよりも遥かに重要なのだと認識を改めることだ。「結局誰にも見えはしないんだから内心で何考えてたって関係ない」というのは致命的な大ウソだ。自らの真実をケアできない者が他者を愛することなどできない。愛のない世界がハッピーになるわけがない。

白い人にせよ日本人的なものにせよ、醜いものは醜い。グローバル化が象徴するように、今となっては日本もパフォーマンス重視(内心の葛藤軽視(蔑視?))が横行するようになってもいて、もはやどっちがどっちなどと論じている場合でもあるまい。

どのみち虚構でもって自己正当化に勤しむわけだ。誰それさんの真実とかにかかずらわらず、一人一人自分の真実に向き合った上で美しいウソをついてもらいたい。絶対真理なんてものはどこにもないし誰も何物も決めてはくれない。ましてや記号を使ってその技巧の正確さで美醜を含む真実度を競うなんて愚かな過ちからはみんなそろって解放されて欲しいと切に願う。どんなパフォーマンスもすでに記号化されたもの。記号化されたものが真実はおろかリアルを指し示す保証などどこにもないのだ。フェイクニュースやポスト・トゥルースは自らの不信心が招いたこと。どんな世界を望むのか?私たち一人一人の肩にかかっている。

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