積み重ねられたものは重い

簡単じゃないよ。変更を加えるのは。ほんっとにわずかばかりではあっても。

ジョージオーウェルの『1984』は、拷問の場面をこそじっくり時間をかけて読まれるべきだ。

生きるということの意味を知るために。

「生きるということの意味」とは言っても、クリアな一言で言い表せる答えなんてない。

なんで拷問なのか?なんであそこまで粘着質に延々と記述されなければならなかったのか?

そこに無駄はない。

仕方ないのよ。

あれぐらいの細やかさと長さ。「もーえーやん」ってぐらいのしつこさがなければ、読む人に生きるということのペインを想像させるには弱くなってしまうのだ。

ペインは何も拷問を受ける側のそれだけではないから。

拷問する側のペインフルなほどの信念。ありゃ信念なんてもんじゃないよ。錯誤。とち狂ってるよ。。。ってぐらい思い込みが過ぎてしまうこと。そこに痛々しさを感じるまでになるには、あのように記述されなければならなかったのだ。

あれが書かれた時点で、既に人々の死生観はそこまでとち狂っていたってことだ。

生きると死ぬとが逆転してしまった。

死ぬの方がはるかに楽で無責任なのに。

生きるということは基本、生き恥をさらしても生き続けなければならない、という意味で苦痛を伴う。しかも延々。当然適宜おふざけでも挟まなきゃやってらんない。

人の世で、ピュアに自然に他者に示されるケアがどんなものよりも尊いのはそういうわけなのだ。サルだってウマだってか弱きものに慈しみの気持ちぐらいは示す。

生きるということの意味が分からないなら、どんな社会貢献事業に携わったところでムダだ。

自分で自分を救う術を身に付けなければ。そうすることの意味を理解しなければ。この世に存在する様々な命をただただ消費し続けるだけだ。必ずいつかは死ぬ。その時まで。

私たちはまだ目覚めてなんかいない。


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