ことばってなんだろう

ポルトガルでマネジメントや組織論の勉強を始めて早や5年。元々は国際開発協力の仕事をしていて、特にお役所の仕事って法律とかそれに基づく規則などなどでできることが決まっている。それはしばしば否定的に(お役所仕事)とらえられるけれど、だからこそ、規則などで決められた範囲内のことは最大限活用してお仕事しなければならないのでは?と考えていた。のだけれど、どうやら仕事仲間達は別に「最大限」とは考えていないようだ。どちらかというともっと大人で、一人一人が「最大限」と望んでも、結局二人以上集まれば「妥協」が必要となるであろう、という感じ。

私自身も自分の考える「最大限」が常に皆から承認されるとは思っていないので、他者との調和は必要と考えている。問題は、問題のことごとくがあまりにもシンプルに、個人の欲求追求か?社会的合意か?という議論に持ち込まれ過ぎている、と感じたこと。具体的に言うと、私の議論は常に「法律規則で決められている最大限を追求していきたい」というものであるのに、その他の人々は「法律規則で何が決まっているか?」すら曖昧なまま、「大人になりましょう」だの「私の担当業務上の規則ではこのように決められています」ということで、「総合解釈してみればうまく全体として規則や法律破りではない説明が可能かもしれない」というような追求はほぼ行われない。

何故わざわざ「法律破りでも規則破りでもない方法」なんてものを追求しなければならないか?というと、それは国際開発協力に限った話ではないのかもしれないけれど、協力の受け手側の事情やニーズなどもあって、先方に理があるならば、それに沿った形で支援が行われなければ、喜ばれないだろうし、協力の効果も上がらないだろうし、理想とされている相手方の自主的、持続的な運営にもつながらないだろう。そういった場面だらけだから。なかなか仕事仲間に理解されにくいのは、そういう場面というのは、本当に細々とした事務的なアレンジ一つであったり、苦労して説明を考えるなどの労力に比して非常に効果が見えにくい事柄であったりする(相手方の事務用品の購入とか)、ということもあったろう。簡単に言えば、「それやって何か意味あるんですか?」と。まあそういうわけで、私自身が、「何故そのような日々生じる細々とした事務作業とかそれを実施していく体制作りが大切なのか?」をシンプルかつ説得的に説明できなかった、と。そういったストレスのようなものが、今の勉強に進む意欲に変換された、ということなのだろう。

あと大きいのは、いろんな国のいろんな人と仕事させてもらって、「ああ。自分ってなんて幸運なんだろう。」と。国際開発協力で経済的に恵まれていない国々、そこに暮らす人々の助けになる仕事をする、ということは、様々批判もあるけど(そもそもリッチな人の余計なお世話なんじゃないの?とか)、まあまあ道徳的には正しいとされる方に置かれるのだろう。ただその「経済的に恵まれていない」人々と触れるにつけ、まさに、「俺ってたまたま経済的に恵まれている側の方で生まれ育っただけやねんな。」と。その違いの残酷さを思い知らされた、ということもある。お蔭でヨーロッパに乗り込んでも、残酷な階層間の違い、というものにも敏感かつ寛容でいられるわけだけど。

いや。ほんとに。私はどちらかというと明るい夢を見ていたいタイプなんだけども、その思いが「ほーら。やっぱり。どうせしんどいんやから楽しくいこーや。」って感じで「どちらかといえば楽にいく方がより正しいでしょ!」って感じで一定程度以上強くなると、逆に「ノーテンキだね。。人ってそんな善だの悪だの言う前に。言える前に。もっともっと残酷な存在でもあるよ。」という声も聞かれ。なかなかどーして。このどっちも当たってるんだけども、そういう曖昧さ加減の中で、では一体何が幸せなのか?考えさせられているわけです。

マネジメントや組織論というとガッツリ資本主義経済の申し子。いかに利益を生み出すか?のようなことばかりを扱っているかのように理解されがちだけれど、私が取り組んでいるのは、人々が日々の活動において、それぞれの考え方、感じ方、もっと無意識的な感覚など、ひっくるめてそれらをどのように「操作」しているのだろう?というその「方法」をひとまず説明しきってみよう、ということ。組織とか社会とかいうものも、そういった一人一人の「観念操作の方法」ともいえるものの結果の集積でしかないのではないか?と。さらにはそういったものは単に地層が形成される感じで積み重なっていくのではなく、積み重なっていくまさにその様をも観念化して(だからそこから何かを感じたり考えたりしながら)、超複雑に絡み合うストーリーを編んでいる。そのラインのよりはっきりした部分を指して、私たちは組織であるとか社会であるとか文化である、というような名前をつけてよんでいるのではないか?と。

なので私にとってことばというのは言語とかその使用規則(文法、修辞)、生成物(文章、音声成果物など)のみを意味しない。どちらかというと、ことばというのは「実体世界があるがままにある」以外のものの集積物なのではないか?と考えている。要するにそこに実体なるものはない。ないからこそ人間にとってはめちゃめちゃ大事なんではないか?と。

そもそもは組織で活動する人々のもののとらえ方、の分析から始まったのだけど、人間にとっての幸せって何だろう?ということまで考えさせられたのにはこの5年間の勉強の経緯が影響している。自分は自分だけではない、とか。内面対話のお話とか。いやいや人の思い描いていると思い込んでいるものって全く文字でも映像でもないのかもしれない、とか。ひとまずぐーーーっと個人内面に潜り込んでおいて、「あ。こりゃだめだ。全く日々の活動には直接は活かされん。」ってことで組織の方へ戻ってみて。現時点ではやっぱり「ひとまず観念操作の方法を明らかにする。そしてまさにそれをご使用中の皆様に理解されるように説明する。」ということが大切。と考えている。これらを小説であるとか、組織論の中でもより人類学に近い手法を用いた研究の成果であるとか、そもそもお仕事って何?何の意味があってみんな働くの?なんて一見関係なさそうな話も絡めて、ことばってなんだろう?ということを考えていきたい。




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