言葉と人となり

為人。漢字だとこうなるのだそう。ひととなり。

言葉は人となりを表すとはよくいわれるけれど、割りと微妙な意味合いが含まれていると思う。

使う側に立つときには、できるだけ注意できるといい、というのははっきりしている。自分の言葉には責任を持つ。

微妙なのは聞く側、読む側に立つ時。

どこまで読もうとするか?で見えてくるものが違ってくる。

気持ちいい言葉、ほっこりさせてくれる言葉、勇気をくれる言葉など、肯定的な感情を巻き起こしてくれる言葉なら、あまり深読みせず(敢えて「ほんまかぁ~?」って引いて見てみるのも時には大事だけど。。。)額面通り受け取っておいてもいいだろう。

逆の場合。。。

言葉って本当にバカにできなくて、理屈よりも先にどうしても感情の方が反応してしまう場合がある。人それぞれどんな言葉がどんな気持ちをほぼ反射的に引き起こすか?は異なると思う。ひょっとするとそんな反射的な感情はあるけれども、割りと簡単に理性で制御できてしまうので、実質気持ちの対処に四苦八苦することがほとんどないって人もいるかもしれない。

反射的なので言葉にはしにくいのだけれども、私が頻繁に困らされるのは、”怒り”とあと内臓(はらわた?)の深い所にずぅぅぅ~んと重たく響くようないやぁ~な衝撃?+その衝撃波がずいんずいぃぃ~んって体の背面全体(腎臓とか肺のある方)に余韻を広げていくような感じ。「あぁ。この感じ。。。嫌な感覚って色々あって、実際に精神とか肉体まで蝕むってのは気のせいにしかすぎないのかもしれないけれど、、、確実にオレを殺しにかかってるな。。。」と感じられるような。

最近は政治家とかその他著名人或はそれほど著名でもなかったんだけど敢えて過激な言葉を、躊躇なく発する、という芸風で(悪)目立ちする人が増えてきている。こうした有名な人々の発言は、ほとんど直接は聞くことが無いので、「オレを殺しにかかっているな。。。」というほど嫌な感覚はない。でも、こうした人々がぽつぽつとでも出てきている、ということは、かなり多くの人々が、似たような言葉の使い方をしているんだろうな。。。と思われ、気持ちがずぅぅ~んと重くはなる。

まあ無力な一般庶民としては仕方のないところなのかもしれないけれど、往々にして、「著名人たちのそうした言動が庶民の側に伝染したら。。。」って考えがち。だけど、私は逆だと思っている。かなり分厚い層の人間が日々の生活の中で体現しているものが、ごく一部の、様々な経緯を経て目立つ立場に上ってくる人を通して特に強調された形で確認される、ということ。

私が社会問題よりも個人の考え方や感じ方、それらの操作の仕方の方に注目してしまうのは、そういうこと。

社会問題を問題として認識した時点で、個人個人は自分自身に、ではなく、それ以外の何かに責任を帰属させようとしている。

社会問題が先にあるのか?個人の方に問題があるのか?一概には結論付けられない。でも、「個人がどうして他者・他物に責任を押し付けてしまうのか?」仕組みが理解されないままだと、放っておいても際限なく現われる社会問題なのに、さらにそれを加速させるように、私たちが勝手に捏造してしまう問題が加わってしまって、対処策がより立てづらくなってしまう。

ただでさえ複雑な社会問題。その複雑化に一定の歯止めをかけるためにも、私たちは自分自身のクセ、分かっていてもやってしまうようなことに、もっともっと注意を向けるべきだと考えている。


さて、とある種類の言葉が私を「殺しにかかっているな。。。」と感じられるほどの衝撃を及ぼすことに話を戻します。

今のように敢えて乱暴な言葉を躊躇なく言い切るという芸風が目立ってきているということは、私も日常的にそのような言葉で先述のいやぁぁ~~な感じを味わうことが結構あるということ。

より具体的にはどんな言葉なのか?


ものすごく攻撃的。
具体性はバラバラだけど、ともかく「敵」「標的」となる人がいて、それを全否定しようとする。(そして自分はそうじゃないから正しいと言いたい。感じたい。)
ともかく一旦飲み込んで反芻してみるという過程がない。
とにかく「言ってしまうこと」が大事らしい。
反芻というか躊躇い(ためらい)がないので、自分が発した言葉がかなり他者に強い衝撃を及ぼしているかもしれない、という疑問もほぼない。
つまり歯止めもなければ、速攻で忘れてもしまえるので、何度も何度も繰り返す。


そのような言葉遣いなので、「一体発せられた言葉は誰のもの?」というと実は誰のものでもなくて、そんな誰のものでもない言葉(せめて発した人には「それ。私の言葉です!」って思っててもらいたいところなんだけども。。。)のために、めちゃくちゃ嫌な衝撃を受けるので、その虚しさというかやるせなさ?理不尽さは途方もない。。。

本題(「言葉と人となり」)に戻りましょう。

それでもです。

それぐらいいやぁ~~な感覚を味わったとしてもです。「言葉がその人となりを表すか?」という問いに対しては慎重でなければならないのではないか?と。

まあ上記(引用形式枠内)のようなクォリティを全て有しているような言葉が発せられるのだから、発する人の人となりというのは、あんまり肯定的に評価されなくても仕方のないことなのかもしれない。

でもその人の全部丸々ではないとは思うんですよね。


「日常使っている言葉と世の中のあれこれとが繋がっているのか?」というと、本当に繋がっているとしても、中々、「よし。丁寧な言葉遣いで世の中をよくしよう。」という風には思えない。やっぱりちょっと距離がある。

「言葉に現われる人となりをどのように読むか?」も似たようなところがあって、丁寧に読み込んだところで、それで何が変わるのか?というのはどうもよく分からない。特に自分によくない感情を味わわせるような言葉。それも一度や二度ならず何度もってぐらい再現性が高いと、「さすがにスル—でええやろ」とも思う。だってともかく嫌な気持ちになるんだし。。。なんで敢えて深く読んで、さらにその後の変化を知るために、変わってない可能性が高い(引き続き)嫌なものに向かっていく必要があるのか?人間そこまでマゾヒスティックにはなれないだろう。

まあほどほどが大事なんだろうな。万人の一語一語を等しく扱おうなんてラディカルに考えるのではなくてね。一般的なお話としては。

とはいえ。何といいますか。エマージェンシー対策?想像以上に混乱した時代の到来?とかに備えるという感じで、「どこまでも諦めない態度」ってのも一つ頭の片隅に置いておいても損はないのかな?などと考えておる次第です。

身の回りが大変になってくると、人ってやっぱりかなり冷酷に目を切るというか見切りをつけるからさ。それってすごい動物っぽいというか野蛮な感じで寂しい。

果たして世の中が大変だから私たちは仕方なく冷酷になっていくのか?それとも、徐々に冷酷になっていって、却って取返しもつかないような混乱を招いてしまうのか???

想像上でもシミュレーションしてみる価値はあると思うのでした。。。

以上今読んでいるこれの影響大。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?