自己3面説と道徳

引き続き自己3面説。

告白批判。

告白は道徳心を失わせる。

合理的科学への過度な依存も同様。

道徳心とは、よりよいものとは何か?について惑い続ける心。

善悪きっかり定義しきって、善に向かって努力し続ける、なんてことではない。

善悪の定義なんてやり切ることは、人間には不可能。

やり切ったと信じるのがまさに道徳心の喪失。

絶対的なナニモノかに対する責任丸投げ。

際限ないゴールなきプロセスに対してコミットできないなら、それは不道徳であるということの証明。

道徳心がないということは、自分自身と対話できていないということ。

よく自己のことについて「批評的な見方ができるかどうか」が取り沙汰されるけれど、往々にして、二項対立的な見方に陥っているだけ、という場合が多い。

つまり、自分自身との対話ができていない。

自己3面説でいうところの、二番目の領域にのみ意識が奪われている。

自分に関する客観的事実。情報源は自分が観察する他者(など)に関する様々な性質など。それらに基づいて、自分自身の客観的性質などをカテゴライズしたり名付けたりする。

客観的事実のみを実証的に検証していると思い込んでいる人間は、実は、とある見方に縛られているだけだということに気付きにくい。

私たちが認識できるモノゴトは、全てコントラストで浮き上がらされている。

つまり、必ず最低異なる2面がある。

批評的に見るといったって、自然と備わっている2面の内の一面を見ているにすぎず、多様な視点がとれているというわけではない。

にもかかわらず、多様な視点をとれる、と思い込みがち。

何故か?

そもそも自分自身の視点(自己3面説の三番目)を取らないから。

モノゴトを客観的に見ていると思っている。

思い込みは構わないけれども、自分自身の視点をとれているかどうか?ぐらいは察知しなければならない。

でなければ、客観性などの決まった答えを下してくれるもの、超越的存在(例:神さま)と、自分自身の視点との区別がつかなくなる。

3面でぐるぐる回して出来上がってくる自己像というのはどうしても必要。

これができない、というか、そうしている(自分自身も一枚噛んでいる)ということを意識できない、というのが客観性狂信者であり、道徳心喪失者の特徴。

客観性狂信者=道徳心喪失者は概してためらわない。

当然よね。

答えはくっきりはっきり見えているわけだから。

客観的、実証的、批評的な見方さえとれれば十分、と豪語できるのは、自分自身が正義の側にいると信じていられるからというのもポイント。

多少強引な力技を駆使したとしても、うまくいくなら構わない。正義だから。力は正義。

「批評的に見ている」と思い込んでいるのに、全く自分自身の視点、世の中に対する関わり方なるものを無視しているという点がとんでもなく醜いし、頭悪そう。

やはり道徳心は人間性の根源。知性そのもの。

モノゴトがすっきり整理されないからって、これを捨ててしまってはいけませんね。

知性?道徳?そんなもん知らん!って言えないわけじゃないけどね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?