主語と述語

インターネットが普及して、noteのようなメディアも増えて、人々が言葉で何かを綴る機会というのは増した。言葉の社会での役割が大きく変化したのは、活版印刷が発明され普及した、というのが一大イベントとしてあるけど、インターネットの普及もなかなかどうして、かなり大きな変化を社会に及ぼしているのではないか?言葉と社会とわたしたちの関係性を変えるものとして。

インターネットを活用する技術の開発というのは進歩が目覚ましくて、今では文字情報だけではなく、音声や動画でも言葉は伝えられ、交換されている。口語と文語というのはかなり性質上異なるもので、同じ言葉として一括りにするのは難しい。かなり大まかに流れをつかむと、昔は口語中心で文語はどちらかというと高度に専門化された技術に似ていた。文字を読み、書き記すことができる人は全体からすると非常に限られた存在だった。それが活版印刷の発明・普及により、読める人が増え、音読が黙読になり、文字を書き記すことができる人の数も割合も飛躍的に伸びた。でも読みに比べると書きは依然として壁がある。ということもあって、口語によるパフォーマンス(パブリックスピーキングであるとかストーリーテリング)も大事よ、という感じで様々修練されたり、情報伝達に活用されたりしている。

受けるよりも出力することは難しい。よって出力されたものは出力を成し遂げた人に帰属させられることが多い。著作権というのはその最たるものだけど、関連法令などが整備されるまでになる、ということは、それ以前の人々の素朴な感覚というのも、「書かはった人のご意見なんであろう」「書かはった人が何か表現したかったんだろう」というように、出力された言葉は出力した人のもの、という認識。

「わかり易く表現するのは読者や聴衆のため」とはいえ、出力された言葉自体も、表現の仕方(技術)も、出力した人に帰属させられる。読者や聴衆が好き勝手な解釈をする、ということはあまり望ましいこととは思われていない。ましてや、パクッて自分のお手柄になんてのは道義的にも法律的にも許されないことになっている。

まあ苦労して出力するわけだから、苦労した分苦労した人に報いはあるべきと感じてしまうのが自然。苦労した分とそれに相応する報い。。。個人に帰属させらるべき価値。「知識経済」と訳されるのか分からないけど世はナレッジ・エコノミーと言われる。知識が交換されることで人々の生活が支えられる。さらに最近ではシェア・エコノミーという言葉も出てきていて、ナレッジはシェアされることにより価値を生み出す。価値にもいろいろあるけれど、経済と深く絡められる文脈では、人々の生活を支えることができる、という意味での価値。これが言葉によって媒介される。シェアが注目されるのは金銭が媒介する売買と一線を画するものとして。つまり、知識が言葉によってシェアされる、というのは、売買ではない。けれども、言葉が媒体となって、異なる人々の間で、生計を支えるのに必要なエネルギー摂取が可能となるということ。一体どうやって???

比較的狭いコミュニティを想像すればそれはそれほど難しくないと分かる。コミュニティの成員が日常的に交流するうちに、何がどこそこに足りなくてどこそこに余っているということが自然と分かり、シェアされるけれど、そうなるための媒体としては言葉が主だった役割を果たすだろう。より効率を求めれば連絡板やコミュニティ新聞、今ならインターネットも活用できる。

でももっと広い範囲に点々と存在している人々同士ではどうする?

インターネットや携帯端末を活用した情報交換は不可欠だろうけれど、さらに、お金も不可欠。だってエネルギー摂取が可能となるモノって食料だけど、現物を遠く離れた人同士でやりとりなんて毎日は無理。不可能ではないんだけれど、既にお互い近くに食料を売っているお店があるなら、毎日のことであればそれぞれお買い物して調達する方が、新たに物流システムを構築するよりも効率的だもの。つまり、情報が交換されることにより、各々の購買力がアップ或は最低限維持されるはず。でもお金が介在するならそれって売買とは言えなくても、実質はそれほど違わない。情報提供者がその情報に応じたお金を手にする。お金の出どころは、noteの有料記事購読者のように個人の場合もあれば、第三者が情報に一定の基準で値段を付けて提供者に支払う場合もある。

情報のお値段の付け方は様々なれど、情報を作ったり、切ったり貼ったりして伝えた人がお金をもらえることは変わらない。noteであれば、個人がそれぞれの好みや感覚で払えるな、払いたいなという金額を払えばいいので、払っておいて思ってたより価値がなかった、なんてことは原則起こらない。それでも、やりとりされる情報がどうして情報発信者の購買力の維持やUPに貢献するのか?の根拠はほぼないといってもいい。

でだ。

そもそも情報って誰かのモノなのか?

切ったり貼ったり加工してくれたり、創意工夫で全く見え方を変えてくれたり、物凄く価値があることは間違いない。

でも元データって加工する人のものといえる?

純粋な創作もの(詩とか小説とか歌とか)は単に交換される情報とは性質が違うけれど、なんでそういう創作物には値段がついて、創作者には対価が払われなければならないのだろう?

そのへんのことは色々と専門に研究している人々もいるだろうから、私は敢えて首はつっこまない。けど、ちょっと違った視点から考えてみたい。

なんで書いたものとか誰かが残したデータを加工したりしたものって個人或は法人に帰属する財産扱いになるのか?

私はそれを主語と述語をスーパー当たり前と思っているから、と仮定してみる。

ともかくモノとモノとのつながりが「主ー述」とされる時点で相当固定的になる。特にものの見え方。

言葉を綴る中で従わざるを得ないルールがあって、「主ー述」はその一つ。何かが主語で何かが述語になる。あまりに当たり前すぎて、そのルールに従うことで私たちの世の中の見方まで影響されるとはほぼ思われない。

言語学でも論理学でも意味論というのがあって、言語(コンピュータのプログラミング言語なども含む)のようなとあるサイン・システムが意味を生じさせ、複雑な概念を記述し、かなり広い範囲の人同士で意思疎通が可能になる仕組みが研究されているけれど、「主ー述」というのはほぼ分析の根幹をなす。

それらに意味がないとは言わないけれど、サインをアプリオリのものとして扱っていると、なんでじゃあサインなんてものが可能になるのかがブラックボックスに入ってしまう。そんじゃあと脳みその信号とか調べるんだけど、結局言葉や数式などのサインで記述するから、ブラックボックスの中はわかんないまんま。

ブラックボックスってでも全部中身が分かんなくても、サインの使われるようになる様子って説明できる。どうやって?

分かんないものは分かんないと認めた方がいい場合がある。

なんで?何が分からないのか?

全てが確率的分布に依存するから、絶対こうなる、ということは言えない。

確率的分布なので算数使えばかなりの近似はとれる。

でも予め絶対の予測は無理。

そういうこと。

サインって偶然の産物なんですよ。特に人間が使うサインは。

自然界にもサインってあって、それらは事後的にだけど、必ずサインとして振る舞う。でもサインとして認識されるような振る舞いを様々な物質がとるようになる過程というのは全て確率的分布による。何の?エネルギー。

だから事後的に見れば、100%サインはサインで、これに統御されて振る舞うように見えるモノを指して、「サインが発する情報により振る舞いを統御されている」と言っても差し支えなくなっている

人間が扱うサインは、この自然界にあるサインとして振る舞うモノ、したがって、他のいろんなものに指令を出しているように見えるモノ、それらからヒントを得て「これってサイン作って指令させれば自動で先々まで予測・統御できるよね?」という理屈でバンバン使いまくっているもの。

とはいえ好き勝手にやっちゃっているわけではなく、かなり厳密に検証は行われ続けている。科学の世界。哲学もかな?何が現実で何が仮想とか表象か?とか。

よく解っていないのが人々がふつーに使っているサイン。科学のように厳密ではないながら、だから色々間違いを起こしながらも、私たちはなんとかかんとか生きている。そこが知りたい。だって間違うんだもの。その傾向ぐらいは知っておかなきゃヤバいでしょ?

ひとつ疑っているのは、科学のことばでは記述は無理なんじゃ?ということ。

サインの使用にまつわる間違いって、社会問題なんだけど、社会科学のこれまでどおりのアプローチでは堂々巡りに終わるような気がしている。

証明せんといかんのよね。。。

証明って無理やもん。

人間が使うサインに含まれる偶然性って確率的分布じゃないんだもの。

本当に本当の偶然なの。

閃いたらその時がサイン。(『サラダ記念日』のようなノリで)

「間違うなっ!」てのがそもそも無理な話。

そんな伝説神話みたいなもんまだ信じてんの?とか言われてもなー。私たちって科学全盛の世紀を生きていたって、日々迷信を作っちゃあ間違えて、たいがい間違いにも気付かず、指摘されてもその指摘の方を信じないってぐらいの頑固さだからね。。。それでも人口70億人だから。。。

そりゃ科学のお陰ってのもあるけれど、人々の迷信グセのしつこさからして、それって単に迷信バカとかでは済まされないぐらいに有効な何かがあるんじゃないか?シンプルなモデルというかセオリーってあるんだよ。何か。

ミミッキング或はモノマネ?

人間のシンプルな現状認識ツールとしてのモノマネは、モノマネタレントが彼女・彼らの芸として顕示するのとは違って、「これでいいですかね?」と問うようなもの。なのでちっちゃいうちは全くの無意識だけど、それでも自我とか自意識の芽生えとしての「これでいいかな?」という微弱な不安感がある。はず。無意識にとるアクションがルーチン化するんだけれど、この段階では「モノマネやっときゃ安心」みたいな意識はない。

微弱な不安感というのは自分が取ったアクションにかなりの高確率で反応が返ってくるからで、インプット、アウトプット、そしてインプットという繰り返しの中で、頻度も含む様々なパターンが認識・記憶されていくとともに、不安感もより具体的になっていく。

私たちが日常駆使している迷信ともいえる直観的技術が、科学のことばで説明しにくいだろうと思うのは、記号が特定されないことには先に進めないから。でも、私たちは記号を使っている。この矛盾。

さらに、記号をかなり厳密な論理的つながりや、実証データで検証して、ほぼこれで現実を扱うのに支障はないという定義を採用したとして、現実はそうした近似の世界で動いているわけではない。だから、直観でトライ・アンド・エラーを繰り返す私たちの現実を説明したことにはならない。どちらかというと、厳密に検証すればこうなる、という予測の方に、直観人間を従わせようとしている、と言った方が正確。

科学ってつまるところ大多数の一般庶民にとっては直観で思いつくメタファーの一つでしかないし、いくら科学者たちが「そこ。間違ってますから。計算。」って言い続けても、そんな声が届くわけもない。これは科学による厳密な検証が無意味だ、と言っているのではなく、私たちが生きている現実は科学が証明可能な仕組みに沿って動いているのではなく、私たちが直観で動いた結果も含めて、検証・証明の材料になっていっている。つまり、一体全体何が起こったか?をより正確に記述してみよう、という試みの一つとして大いに意味がある、ということ。だってそれが分かったら、先々何が起こるかは完全には分からないとしても、いや、だからこそ、どうやっていこうか?ってのの資料にはなるでしょ?

ミミッキングが比較的シンプルなルールだ、というのは、私たちが直観で感じている現実っぽさと、科学が事後的に証明する法則とが多分かなり自然に重なり合っているはずなんだけど(そうでなければここまで科学技術のお陰で人々の生命の安全が向上していないだろう。勿論科学技術の威力のお陰でより大きなリスクを背負わされているという側面もあるけど)、直観での判断があたかも科学で証明される法則に従っているように見える、その直観判断の仕組み、そこで活用されているであろうモデルのようなもの、その成り立ちが説明できるのでは?と考えているため。

ほぼ無意識だから。目に映るものに似せて振る舞おうとするのは。

大事なのは、目に見えるモノに似せようとするからといって、それは別にどっちかが「主」でどっちかが「従」というわけではない、ということ。なので記号論では「述」という。単にとある記号「主」は、動くもの、存在を主張するもの、「このような状態です」と述べる記号に関連付けられる、というだけ。

なんだけれども、ここでまたやってきます直観。

ただ関連付けられるといったって、序列作っちゃうのよね。。。形がハッキリしている方が先。つまり、本来「このような状態です」と述べるに至る何かが起こっているから、それを見て、特徴なりなんなりが抽出されて名前が付くはずなんだけど、名前と名前の関係を繋ぐものとして、それぞれの名前の由来は、必要に応じて引用される捕捉情報扱いとなる。世の中は名前がどんどん作っていくイメージ。

で。「述語にこそ注目を!」とは言うんだけれど、その言葉自体が既に矛盾を孕んでいるという。。。結局この分析方法だと、二律背反のイメージが付きまとう。「主」も「述」もあくまで単なるカテゴリーの名前として、両方同時に、それらが共同で機能する様子を見たい。

ミミッキングはそのためのもの。

記号の成り立ちに深入りするのではなく、アクションの模倣と解釈のシンプルな繰り返しで、突拍子もないメタファーを引き出したり、多くの人々がほぼ統一のメタファーを採用することになる様子を説明する。記号の成り立ちは、無視するのではなくて、「謎」としておいて、人々が迷信や科学を採用(非採用)する様子からその謎を探る(想像してみる)。

社会科学の分野であれば、社会をこの「謎」の記号の成り立ちと見る。

記号のプロセスとして見る、というのは、物事を二律背反や因果関係で見ないだけでなく、特定のはじまりも想定しない。どのアクションが模倣で、どれがオリジナルなのか?は問わない。でもお互い似せようという傾向を示す。

そうすれば、目に映るもの、観察可能なモノには須らくなにがしかの”知性”が備わっていることになる。これは私たちが日常ごくごく自然に駆使している方法。そして科学がかなり厳しめに戒める方法。

「知性」というと特に科学者たちからは鼻で笑われるだろうけれど、私たちが朧気ではあっても感知できるもの、まだ確固たる形を得ていないんだけどとにかく存在が認識できるもの、そういうものって全て確率的に有意なものの集合なので、詳しく見ていけばなんらかの規則性を持つ。いわゆる「情報」というやつ。ドライバーを小包の包装を破るのに使っても、耳かき替わりには使わない、とかいう、何となくの基準。そういうものの元となる「情報」。「知性」というよりは「何らかの基準を設定して、その基準に基づいて判断を下したかのように振る舞わせるもの」かな?厳密に言えば。

情報って流れることによって価値を生む、とは言われるんだけれど、動かし続けるのには、人間の意識・常識も作用する。とある情報が自分の持ち物で、他人の持ち物だというのが常識であるなら、情報の流れは都度滞らざるをえないだろう。このイメージを覆すのはかなり難しい。それは、価値を生むというのは未来予測についてで、いくら現在や過去を評価しよう!と言ったって、そうすることによって未来予測がより明るく見えないなら、価値なんて認められない。でも、未来予測だけに集中していては、因果関係を洗い出すこと、それに必要な指標の厳密な定義が主だった活動になってしまって、そこで流れているべきはずの情報が各種定義によりせき止められることに注意が向かなくなってしまうから。

「謎」の中身を厳密に解き明かそうとするのではなく、事実目に見える物事から色々と類推してみる、という手法。そうすることで著されるストーリーというのはあくまでもフィクション。フィクションがいかにして現実の未来予測と繋がるか?それが納得されれば、この一見ばかばかしい手法にも社会・経済的価値も出てくるのではないか?







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