海外放浪記(学生時代)

私は大学に入るまで一切海外経験がなかった。

さらに、ちょっと迷って、9月頃から野球部に入部したこともあって、そのまま行けば卒業まで海外経験もないなーと思っていた。

まあそりゃ6大学選抜とかに選ばれるような凄腕なら、ハワイとかアメリカとか行くチャンスはあるんだろうけど、、、そんなプレーヤーではなかったしね。。。

で。

野球自体は好きなんだけども、振り返るに、どうも頭が悪かった。

とっても旧式な考えというか、ただ続けるだけで意味があると思うタイプ。

本当に。

もうちょっと考えてね。

足りない部分を地道に着実に補強していく、というようなプラン立て、そして実行力があったなら、、、実力ないなりにももっとできたんだろうなと思う。

というぐらいのものだったので、神宮のベンチにも全く入れず。。。

さすがに「これで最後まで恙なく、、、」でええんか???と。

卒業後どんな仕事に就きたい?ということも考え出すし。

未だ見ぬ海外ね。

そこで仕事したいなーと。

でも、30年前とはいえ、すでに学友たちはそれなりに海外経験もあって、そんな様子を見るに、「私海外志望です」とかいって一切経験ないんでは、、、そもそも採用も覚束ないのでは???と。

いうことで。

野球部は中途退部して、バイトしてお金貯めて、卒業までに可能な限り長期海外で過ごせる方策を練った。

当然授業や試験もあるので制限はかかる。

休学して留学とかもちらっとは考えたけれど、休もうが何しようが卒業はせねばならないわけで、学生やっている期間は必ず学費はかかると。

親には結構無理させてしまっているという意識もあったもんで、4年で卒業そして就職はマストだろうと。

考えたのはアメリカへの語学留学。

いろいろ本調べて(当時はインターネットとかなかったし、、、)、安くてかつ長めのプログラムがある学校を見定めて、せっせとバイトに励んだ。

こちらも時給優先で、早朝の売り子さん(レジ打ちあり)を、家からも学校からも近い上野駅に見つけて、確か週4ぐらいで始めた。

ところ。

部を辞めたという噂を聞きつけた高校時代の球友が、「中国行かへんけ?」と声をかけて来たもんで、アメリカではなく、まず中国へ行くことになった。

今もあるのかな?

鑑真号。

神戸港から上海まで。2泊3日だったかな?

中国とはいっても広大。

バイトもあったし、それほど長い期間もとれないので、テーマは”敦煌”。

上海上陸後列車バスを乗り継ぎひたすら西を目指した。

そのたしか2,3年前に映画『敦煌』が公開されていて、それに影響されたのもあったのだけど、ロケが行われたという現場も訪れ、中々楽しい球友2人との初海外であった。

中国しかも船旅だったとはいえ一応海外の洗礼を受け、帰国後は早朝バイトに深夜のコンビニも組み合わせ、がっつり稼いで1992-93年の秋冬にかけて、計画通りアメリカへ行った。

大陸のおへそあたりにあるオクラホマ州はタルサ。

学校への申し込みもステイ先とのやりとりも全部自分で郵便でやってたもんで、現地到着後ステイ先までの移動手段確保のため、自宅を出発するほんとに直前にステイ先にTELして、到着便名およびその他詳細を告げてから成田へ向かった。

ダラスで乗り換えて到着したタルサ空港。

オクラホマ州の州都はオクラホマシティーだから、タルサって田舎の空港かな?などとイメージしていたが、空港自体は全くもって近代的(に見えた)。

で。ステイ先のおじさんと、私よりも2,3週間早くからステイを始めていた、同じ語学学校に通う中華系インドネシア人の少年が待ち受けていてくれて、難なくステイ先まで到着することができた。

ステイ先は一軒家。

私が到着した時は、主人であるおじさんと、出迎えに来てくれたビリー君(仮名)だけだった。

ビリー君によると、奥さんは看護師さんで、あんまり家にいないとのことだった。

週末には大学生である娘さんが帰宅して家族と過ごす。

そんなご家庭だった。

まあ田舎は田舎だったもんで、車無しではほぼどこへも行けず、語学学校の期間(5週間)は、ステイ先のおじさんのクルマで、学校とステイ先の単振動生活だった。

時期がクリスマス前にもかかってたこともあり、学校の方で、地域のクリスマスライトアップ見学ツアーとかボウリング大会とかアイススケートとか、、多少のイベントは企画されたけど、概ね英語のお勉強と、帰宅後はビリー君とのおしゃべり、というつつましやかな日々を送った。

語学学校はそもそも大学進学のための条件を満たすことが主目的であったので、TOEFLの点数は随分上がった。

しゃべりの方は、、、。イマイチだったな。。

生徒の出身地構成は、6,7割(いやもうちょっとあったかな??)がグアテマラ、あとはビリー君をはじめとするインドネシア、私たち日本人が数人ずつ、元気なサウジアラビア人が一人いたな。

学校の5週間終了後は、当初の予定通りバス(グレイハウンド)旅行。

期間が限られていたので西海岸は捨て、東海岸を目指した。テネシー、ケンタッキー、フィラデルフィア、ワシントンDCにニューヨーク、ちょっと南に下ってジョージアにニューオーリンズと行って、一旦テキサス、オクラホマを通過してコロラド州まで足を伸ばし、再びダラスに戻って帰りの便に乗って帰国という行程だった。

未だに西海岸は未踏の地なんだけど、まあアメリカは今となっては別に行きたい場所ではないなー。

初めてだったので、それなりに楽しんではいたんだけどね。。ロックフェラーセンターの名物スケートリンクから始まり、自由の女神、そして今はなきワールドトレードセンタービル展望台という映画に出てきそうなデートコースを西海岸から来ていた女性と回ったり。。って今になって振り返るとほんまドラマになりそうな一日やな。。。

帰ったのが93年の正月過ぎ。

あとは就職活動に勤しむばかり、、、。

と思いきや。。。

風来坊癖が付いてしまったのか、ふと思い立って春休み前に東南アジアへと飛んだ。

格安チケットバンコク行き。もう出発当初から帰りの便は乗るつもりなし。

ほんとにぶーらぶーらとお金が続く限り、うっすらとした目的地案を頭に旅を続けた。

ベトナムは必ず行きたかったので、ついでにカンボジア行ってそっから陸路で入ることに決めた。でもカンボジアのビザが2週間ほどかかるということで、その間マレーシアはペナン島を目指し、そっから船が出ているということでインドネシアはスマトラ島へ渡り、島を適当に旅してから、もと来た道をバンコクまで戻った。

本当は極力陸路を使いたかったんだけど、さすがにあの当時は(今も?)、タイーカンボジア国境はまだまだ治安が良くないということで、無理せず飛行機でバンコクからプノンペンへ飛んだ。

実は飛ぼうとしたら機材の不調?不達?とかで、一日航空会社持ちでバンコクのホテルに足止めされたんだけど。翌日は無事飛べて難なくプノンペンに降り立つことができた。

当時はまだ日本も参加したPKOの残り香が漂っているという感じで、まだまだ復興途上だったプノンペン。ホテルらしいホテルもなく。しかもそれがバックパッカーにとってはとても高価だったため、こりゃいかんとすぐにホーチミン行きのバスが出ると言われる場所へ行き、早朝の便だということで、丁度いいやと周辺で夜を明かし、カンボジアを脱出した。

一応クメールルージュの収容所跡がメモリアルモニュメント的に残された場所なんかは行ってみたんだけどね。骸骨の山には寒気ももよおしたり。。。インパクトもそれなりにあったのだけど。。。

暑かったし。。。

隣国ベトナムとは全く異なる印象だった。

ベトナムでは街を歩いていて声をかけられた青年とその仲間(約10人)と、車(ワーゲンビートル)やバイクに分乗してブンタウビーチなる海水浴場へ遊びに行き、カニ食ったりしこたま333ビールを飲んだり、帰りはワーゲンがストールして、みんなでおしがけを試みたり、、、とのっけからなかなかエキサイティングだったな。

多分そこで海で泳いだからなんだと思うんだけど、ホーチミンを出て、北上途上に滞在したフエで、突然耳が痛くなって、ホテルの人に相談したら即刻近所の病院に連れて行かれた。中耳炎。。。

中耳炎の古典的?治療法としては鼓膜に穴開けて膿みを出す、というのがあって、そいつを施され、薬も処方されて一週間ほど安静にしていた。フエで。

鼓膜に穴開けるときに、私が暴れないようになんだかいろんな人たちにぐっと体を押さえられたってのも印象に残っているんだけれど、それよりも、その前に、ドクターが耳の穴覗いて、長旅のせいもあって垢がたまりまくっていたらしく、なんかピンセットのようなもので引っ張ったみたいな感覚があって、ゴゴゴゴゴゴっと音を立てて巨大な塊がごっそり耳の穴を抜ける感じがした。

こっちはなんとなくすっきりいい気持ちだったんだけけど、おかしな外国人が来たってんですでに診察室を取り囲んでいた人々からどっと爆笑が起きたのは極まりが悪かった。。。

相当なもんが私の耳から引きずり出されてきたんだろうと想像する。

現物は見てないんだけどね。。。

耳の痛みもどうやらおさまったようなので、慣らし運転がてら、ホテルで自転車を借りて、フエの街その周辺をサイクリングしてみた。

大丈夫そうだったんで一路ハノイを目指す。

ハノイでの重要ミッションは中国行きの経路確認とビザ関係。

地図眺めてて、どうしても陸路で抜けてみたくなったのよね。

ベトナム外務省ではもう国境は開いている。

在ハノイ中国大使館では「お前何言ってんの?そんなとっから入れるわけないやろ」みたいなつっけんどんな対応をされ、ちょっと腹立たしかったのもあり、ベトナムを信じる!ということで列車に乗り込んで国境を目指した。

国境はほぼほぼすんなり。

多少の質問などもされ、お決まり?の多少のお金もお支払いしたという程度。

国境には川が流れていて橋を渡ってベトナムから中国へ入ったんだけど、橋の欄干には中華風?ベトナム風?の色とりどりののぼりっぽいものが立てられていて、本当に最近国境が開いたかなんかで、セレモニーでもあったような雰囲気だった。

しばらく暑いところを旅していたので、春城とも呼ばれる雲南省は昆明を目指した。

到着した昆明は噂通り涼しかった。

高地。

野口みずき選手などもこの地でトレーニングされていたと記憶する。勿論時代は前後しているのだけれど。。

お隣の貴州省もまだ涼しく、しかし東へ東へと移動するにつれ、標高も下がり、気温も湿度もそれなりに上がる。

あー

もう旅も終盤だなー

最終目的地は香港。

でも真っ直ぐには向かわず、湛江などに立ち寄り、広州に入って、深圳そして香港へ。

有り金がなくならないうちに、さっさと日本行きのチケットを買い、あとは出発日までをのんびり過ごそうとしていた。

ところがガイドブックでも有名だったらしいカード(トランプ)詐欺に見事に引っかかり、一文無しに。。。

既に航空券は買ってあったんだけど、出発日までの2,3日を食いつなぐお金がゼロ。。。ドーミトリーの代金も払わないかん。。。

どないしよ?

とりあえずどうにもならんかもな?と思いつつも実家へコレクトコール。

すると望外なことに、父親の旧部下の方がたまたま香港駐在でおられ、お金を貸して下さるということに!

ほんと。すみませんでした。。。

お金を受け取りにオフィスへお邪魔するにも、髪も髭も伸び放題、ぼろんぼろんの洋服しかなく。。。非常にバツが悪うございました。。。それでも襟付きボタンダウンのシャツは着て行ったのよ。。。秋冬物で香港ではえれー暑くて汗だくだったんだけど。。。

先方には事情を説明して、必要最小限の額だけをお借りし、お陰様で無事香港を発つことができた。

伊丹に着いて、そっから実家へ向かったんだけども、「大丈夫です」とみえをきったわりに持ち金が十分でなく、どうしたものかと少し考え、初乗りプラス10円はぎりぎりあることが確認できたので、初乗り切符で阪急に乗車。

実家最寄り駅から公衆電話で「留守電になるなよー」と祈りつつ最後の10円で実家に電話。

運よく弟が在宅で、精算料金を持ってきてもらい、プラン通り実家に辿り着くことができた。

学生時代はこのあと、卒業前に友人と卒業旅行で海外(イタリア・スペイン)に行ったのだけど、まあそれは放浪記っぽくはないので割愛。

とはいえ、中国に一緒に行った球友の一人と全くの偶然で出くわしたり。しかもホステルのトイレで。かつ双方とも朝から同じ時間帯に大を催したがための遭遇だった。

とかいう旅にありそうでなかなかないような出来事もあったんだけどね。。。

(社会人時代編へつづく)

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