アナーキズムはウケない

アウトプット指向の世の中では。

アナーキズムは一義的に内心の問題。

現代人は大っ嫌い。

ってゆーか。。。

全く意味を見出せない。

内心の問題にいくら拘ったところでメシは食えないしね。

メシ食えなきゃ生きて行けない。

でもさ。。。

メシさえ食えれば生きてたいか?

メシメシっつったってウマい方がよかんべ?

味にゃ拘らないっつったってさ、あまりに味気ないのは、食う度惨めな気持ちにもなりかねないさ。

そんな場合はメシ以外のものがとっても大切だったりする。

つまり。

ただ生きてるってだけじゃダメなわけよ。人間。

「死んだらおしまい。だからとりあえず生きようとすべき。」とかは、生きるの死ぬの大して差し迫ってもいない奴らの鮮やかな議論のすり替えさ。

ともかく死んじゃったらお終い。死んじゃった後のことは誰も知らない。想像するのみ。

議論すべきは「いかに生きるか?」

死ぬまでどう生きるか?

「死ぬ」の方にフォーカスを置くとしても、いかに死ぬか?

つまりは生きている間のクォリティが問題なのさ。

ともかく「生きてる」ってのが最低限とか?

ウソだね。

最低限なんて誰が決められるよ?

クォリティが関わってくるんですよ。どう誤魔化そうとしたってね。

最低限のクォリティなんてもんが決められたらどれだけ考えはシンプルで済むことか。

事実現代人はシンプルさの虜さ。

で。

虜になっていることにも気付いていないと。

最低限のことは理解している”フリをする”。

うつくしーねー。

砂上の楼閣。

まやかしの現実。

拠って立つ地面はスカスカ。

内心の問題なんて余裕でマネージできるとかウソ言ってるからそうなる。

内心の問題に拘るのはいいことよ。

暇が潰れるってだけでなくね。

現実世界で不道徳なカネ儲けに従事して、無駄にリソースをかき集めてサバイバルしてたっていいわけよ。

そうしていながら、内心の問題なんていくらでも考えていられる。

現実と内心との整合性?

知らんがな。

現実に生きる糧も得られて、内心の問題も考えていられて、それ以上何を求めますかね?

両者の整合性に拘りたければ拘ればいい。

そんなの全くの自由。

バランバランになっちゃったら耐えられない?

ほんとにどーでもいいね。そんな話は。

ともかく内心の問題にちびっとでも目を向けてみることさ。

やってないうちから現実生活の方がどうなるか?なんて分かるわけないっしょ?ま。内心の問題に全く目もくれないってのは、それぐらい現実の生活だって大切になんかできてないってことなんだけどね。。。

内心に少しでも目を向ければ多分勢いは多少削がれるだろうけれど。そのぐらいで丁度いいでしょ?

アウトプット、アウトプットって。

見る人読む人受け手側のキャパってものもある。

そういう面に配慮もせず、みんなして個々人の成果だけ考えてアウトプットし続けてたら、いくら想像力でどうにかなるっつったって、スペースに限界も出てきますわ

ほんでにっちもさっちもいかなくなったと感じたら。。。

結局他人とか自分以外の何かのせいと。

抜け落ちてしまっているのは明らか。

現実に参加しているはずの自分自身

客観的に全部が全部決められているとか。

内心も現実もなんも考えてないこと誤魔化すためだけに、都合のいい(ふざけた)幻想持ち出すの。いい加減止めなきゃね。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

ありがとうございます。ついでにフォローもいただけるとうれしいです。
5

Hakushi Hamaoka

動的平衡の社会学

私たちの社会を構成する関係性は全て非対称で非平衡。「社会を分析する」とは、動的平衡のプロセスを精緻に観察することから始められるべき。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。