「この世はもうじきお終いだ」 野坂昭如 「マリリン・モンロー・ノー・リターン」を楽しむ

野坂昭如「マリリン・モンロー・ノー・リターン」
https://youtu.be/jx9FYmMOA04
今年一番聴いてる
オリジナルもいいけどこれも素晴らしい
#今日のBGM

今年2月にこのようにツイートした「マリリン・モンロー・ノー・リターン」だが、年末になってもその座を譲らなかったので語ってみたい(※)。敬愛する野坂昭如氏の名曲の一つである。

まずオリジナル版。

諦観という諦観がサビを占拠、支配している

触れたい箇所は多数あるが一つに絞る。もっとも重要な、サビに当たる「切ない、切ない」の部分だ。旋律は八分音符でB、B、B、A、B、B、B、Aと単純に繰り返すだけで、その他の楽器も「イメージが伝わるコードをとりあえず抑えておきました」程度の作業で留まっている。しかし自分にはこれが味噌と思えてならなかった。この無気力さこそが楽曲の主旨「この世はもうじきお終いだ」の主旨を強烈に演出していると感じたからである。起承転結で言うなら「転」を待つべき箇所でありながら、「転」でもなければ、奇を衒って「静」とするわけでもない。ただ最低限の仕事しかしていないサボタージュっぷりがそこにあるだけで、「楽曲そのものの造りまで諦観しちゃってるのか?」と疑ってもいいくらいの構造だ※2。たとえ結果的にそうなっていただけだったとしても、諦観という諦観がサビを占拠、支配しているのは確かだと思う。

通常、リスナーはそんなところまで意識して聴かないし、作ってる側もそこまで理論を考えることはない。多くの音楽が制作時の想いや視点が自然と音符や演奏に反映され、結果的に美しい数列が現れていただけであるのと同じように、「マリリン・モンロー・ノー・リターン」も諦めきったような視点が、この無気力且つ郷愁と哀愁に満ちた美しい構造を生みだしたのだと思う。素晴らしき「作曲家の仕事としての当たり前」がそこにあるだけなのだ。

ちなみにもし、自分がそのサビに直面し、スコアに向かっていたとしたら。きっと「無力感を出さねば!」…と、ゴチャゴチャとこねくり回していたと思う(だからダメなんよ)。

もうひとつちなみに、この曲は作詞者と作曲者が別名だが、同一人物である。このセルフの相乗効果は効くときは本当に効く。単純な作詞作曲とはまた違う話なのだが長くなるのでまたの機会に。

それらはともかく、かねてよりこういうアレンジメントの妙は「歌詞に隠れ」て評価されにくいと思っていたのだが(こういうのに気づかされてもネット如きで調べて出てきた試しがない)、しかし見つけづらいそういった妙こそが、楽曲に対する大衆の注目度や評価を上げる役割を大いに担い、またこういう邂逅に繋がるとも感じるのである。どこがウケたか作り手は分かっているのに、愛聴しているファンが気付いていない部分があるというのはそんなに珍しいことではないと思う。

そしていよいよコンサート版。

組織化に失敗した左派のような世界観を、黛敏郎の嘲笑が完成させる、悲しく美しい決定的瞬間

サビに当たる部分に「堂々たる弦の上行」が登場している。一拍ずつB、C#、D、E、F#、G、A、B、C#、D、E、F#と12段の階段を着実に登っていく様は、オリジナル版と打って変わって自信に満ちてさえいる。これによってコード進行も幾分か浮き上がり、自宅でレコードプレーヤーを回すシチュエーションと違って、例えば「気怠い構造であるわけですよ」というものを聴衆の前に毅然と配置しにいっている、もしくは少なくともそういう結果になっているのである。

先述の通り、聴衆がそういったことを意識して聴いているかはやはり分からないが、舞台俳優の演技が映画やテレビよりも大袈裟であって丁度いいようなものと考えてもいいかもしれない。聴衆が存在するということは、聴かせる側と、それを聴いている側(さらに言えば、聴いているという事実を舞台の上に認知させている側)の関係が存在しているということである。レコードを一人で聴くのとは大きく違うリアルタイムのシチュエーションが生まれているのだから、編曲者がそのあたりを考えてアレンジするのは不思議なことではない。特にこの曲のオリジナル版のはっきり提示しないような諦観的性格を考えると、そのまま聴衆の前に持っていくことはしないのではないかと考えてもいいはずだ。

もちろん実際の意図はどこにあったかは分からない。しかし結果として、オリジナルで「切ない切ないこの夜を…」だった部分が、「切ない切ないこの夜を…!」くらいに、ちょっと強い訴えに変化していると感じ取ってよくなっているのだ。またそれによって、そういった訴えなるものが劇化したはずが逆に鈍化しているようにも感じられなくもないところも面白い。

さて、舞台と聴衆の関係にはもう一つ重要な「視覚的要素」が存在する。

普段着のまま出てきたのかようなセーター姿のショボくれたオッサンが、うつむき加減で歌詞カードを追いながら歌う姿は圧巻である。序盤に食い気味になってしまうところも、その辺のオッサンくさくて実にいい。左右に立つ混声コーラスの統一感のない中途半端ないでたち、その後ろで理解者の如く全力でプロフェッショナルを発揮しているコンダクターとオケのバックアップ感もまたどこか悲しくて素晴らしい。

そしてこのコンサート版の白眉なところは最後の最後に聞こえてくる「はっは」という笑い声である。ツイッターでも書いたが、きっとこれは司会の黛敏郎の声であろう。「題名のない音楽会」の司会で有名だが、保守としても知られていた人物だ。労働組合のリーダーのような風貌のオッサンがオケをバックに諦めから希望に駆け上がろうとした刹那、そんな真逆のような立ち位置の彼に嘲笑されて(?)エンディングを迎えるという悲哀。なんとも堪えられない瞬間ではないか。

そういった視点で掘り下げていくと、左右のコーラスの中途半端ないでたちも、組織としての機能をまともに模索できないまま変革を信じて疑わないブント、今なら個人崇拝の矛盾で右往左往して分派するようなどこぞやの生まれたての勝手連とも被って見えてくる(見えねーよ)。またオーケストラもポッと現れた、支持はしないがカンパだけするそれなりに強力且つ賞味期限の短い微妙なシンパにも見える(これは見える気がする)。そしてその真ん中に…野坂昭如である。完璧とはこういうことなのかもしれない。

愚生はこのあまりにも悲しく美しくカッコイイ瞬間が堪えられなくてこのバージョンを好んで聴いてしまうのだ。

※せいぜい数十回。

※書き漏れていた内容(2021/1/27追記):「流石にサビなのだから、例えば副旋律くらいは何かしら行動をとってもいいんじゃないか?気怠くするにしてももうちょっとこうヒラ~ッとした何かを付け加えて…みたいな欲求があってもおかしくないくらい質素である。」

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