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114話 水商売入門①

陶磁器の町での貴重な1年で、持って回れるような公的な資料も飛躍的に増え、自分の企画業の売り込みは益々勢いづくはずだったのだけれど、その頃の僕は、明らかに相手に食らいつくようなハングリーさを無くしてしまっていた。
ある程度まとまった仕事を納めたせいで、自分の中で勝手に仕事の敷居を上げてしまい、仕事をもらえるかどうかもわからないならもう少し相手の反応を見ようとか、一度訪ねたのだから少なくとも次は相手からオファーをもらってから動こうといった、待ちの姿勢になってしまったのだ。

加えて「陶器のマウスピースのハーモニカ」を作って以来、久しぶりにハーモニカへの情熱に火が着き、前にも増して演奏活動の事が頭にある、常に気が散ったような毎日になってしまっていた。
今までの数年、どうしてさして夢中でもないままに演奏活動を続けられていたのかと不思議に思えるほど、次のライブが待ち切れない日々だった。
ようやくアポがとれた相手先へと営業に向かう車の中ですら、赤信号や渋滞などの隙を見つけては、ハーモニカを取り出し練習を始めるほど、やる気がみなぎっていた。

けれども皮肉なもので、そういうタイミングに限って、演奏をしていた店が改装に入りレギュラーで続けていたライブが延期になったり、メンバー間のいざこざでバンドが休止してしまったりで、上手く行かない事が重なって行った。
そうなると、仕事が暇な上に今度はライブすら減り、ただイライラするだけの毎日で、おまけに自分のプライドだけが大きくなってしまったために、終いには何もしない完璧主義者のようになって行った。

そんな時、暇に任せてドハマリして行くのが、再び通い出したブルースセッションイベントだった。特に他に趣味も無かった僕には、とにかくブルースセッションへの参加だけが癒やしの時間だった。
かつてのような即興演奏への緊張などは無く、ただ楽しむ事ができる演奏レベルにはなっていたし、僕が吹く事によっておおよその場で強い反応が巻き起こるのが快感だった。
時に「スーパー・ハープ」なんておだてられいい気になって、自分でも実はかなりのものなのではと、密かに勘違いをしていたほどだった。
そのおごりは、愛知や岐阜の演奏者達のレベルが低かったからではない。むしろ全体的には東京と並ぶほど高かった方だろう。けれど、東京を離れ八木のぶおさんのようなトップハーピストを常に観られる状況が無くなったため、刺激が少なかったのは確かだった。

そんな中で、僕はあるブルースのBarに入り浸るようになる。そこは名古屋のブルース専門のBarで、土日はライブ営業を行っているのだけれど、平日のほとんどはブルースセッションデーを開催している、個性的な店だった。
店のセッションは、曜日別にしっかりとしたホストバンドが入っており、決めた曜日は1年皆勤という参加者がざらなほど、いつも常連客でひしめき合っていた。まるで学校のように出席をとれるのではというほどの、熱心な常連さんばかりだった。
ここでもやはり女性の参加者はほとんどおらず、いても誰かの彼女か奥さんだった。たまにぶらりと1人でどこかのバンドの女性ボーカルでも参加しようものなら、それこそギタリスト達の「鳥の求愛ダンス」合戦が幕を開ける。東京でも名古屋でも、それは変わらない事のようだ。
そのホストバンドのひとつはかなりの人気で、リーダーはマスターの長年のバンドメンバーが務めていて、ちょうどジャガから僕が紹介された、かつてのホストバンドの状況とも似ていた。

店にはハーモニカ奏者も多く、初心者を交えつつも参加者のレベルは全体的に高めだった。店のマスターがハーモニカを吹くという事や、店にハーモニカ専用のアンプやマイクが揃っていたせいかもしれない。
その中で、僕はブルース以外のジャンルでもアドリブを吹けるという事で、セッションでは難しい曲でばかり呼ばれる事が多く、ラストに始まるベストメンバーでのセッションでは、ほとんどと言って良いほどご指名を受けた。

やがてハーモニカでブラスセクションのようなパートを自分1人のハーモニカで奏でるスタイルを考え、この店のセッションで試し始めた。
「オクターブ奏法」といい、4つの穴をくわえ、舌で真ん中を塞ぎ、口の両脇から出る2つの音を重ねるという、ハーモニカではスタンダードな技法なのだけれど、ブルースの演奏において使う場所を限定すれば、まるでB.B.キングのバンドのブラスセクションのバッキングを思わせるような、コンビネーションプレイが可能だった。
以前レベルの高いセッションでハーモニカの達人にメタメタにやられた「ダブルハープ」のような機会でも、この方法でならばパートの棲み分けがハッキリできるので、同じ楽器同士でガチャガチャとぶつかる事も無くなり、マニアックながらも画期的な奏法だった。
これはバッキングの演出でもあるため、ソロを弾くギタリストにとっても好都合だったらしく、セッションの現場で喜ばれる事が多かった。前例も無いため、お互いをライバル視しやすい他のハーモニカの参加者達からも、素直に教えて欲しいと質問されたりもした。やがてこの奏法は、僕の自慢の武器の1つにもなって行った。

僕は自分のライブなどはブッキングした事がないのに、この店にだけは月に2回くらいのペースで顔を出すようになって行った。
同じハーモニカを吹くマスターの趣味もあってか、店でかかかるBGMはハーモニカを全面に押し出したようなブルースが多かったし、当時はまだ手に入りづらかったブルースマン達のビデオ映像などが持ち込まれる事もあった。「リトル・ウォルターらしき映像が手に入った」という話で、深夜に集まり、常連同士で鑑賞した事もあった。いわゆるブルースヲタクの集いの場だった。
レコードコレクターの常連客が蓄音機で昔のブルースのレコードを聴かせてくれたり、何かしら勉強になるような情報交換も多かった。僕はこの頃から、ブルースという音楽自体を、純粋に楽しみ始めたのかもしれない。

けれど、今までになく高まって行くハーモニカへの探求心とは反対に、僕のバンド活動は少しずつ先細りになって行った。運悪く、店の騒音問題での移転話やメンバーの体調不良などのやむを得ない事情までも重なり、定期的に出演する話が減ってしまい、スポット的なイベントが企画されては、やがてなんらかの理由で中止になる事が続いて行った。
そうなると、ライブ活動が軌道に乗っているからこそ、ブルースを楽しむためだけに遊びに行っていたセッションが、腕がなまらないために通う「トレーニングジム」のような意味合いになって行く。
新たにセッションの店で知人になり始めた常連さん達から、「最近はライブあまりやってないんですか?」と聞かれるのも、正直なかなか辛いものがあった。即答でライブの予定が言えなければ露骨に言葉から敬意が消え、自分の扱いが悪くなって行くからだ。
常連さんの中には、初心者同様の演奏歴であっても、ノーチャージや投げ銭という条件で、定期的に気軽なライブをできているような人もいた。またそういう人に限って、年間のライブ数が何本だのと、どうでもいい数字でマウントをとって来るのだ。

ブルースセッションが入り口にはなったとはいえ、その店自体が好きになった僕は、やや遅れて、店のマスターとも仲良くなった。
店の暗がりで、いつもはっきりとは顔が分からなかったけれど、よくマスターは「クリント・イーストウッドに似ている」と言われ喜んでいた。僕はそのオーストラリア版「ポール・ホーガン」の方が似ていると思っていたのだけれど。
マスターはやせており、かなりのなで肩で、女性的な雰囲気すらあった。また名古屋という土地柄には珍しく、言葉が柔らかく、マスターに話す事自体が癒やしそのもので、当然それがBarとして人を引き付けていた。
マスターは職業柄か聞き上手で、不思議な静けさの中でどんどん話を引き出して行くタイプだった。ただ僕は酒を飲めないので、いつも数杯のコーヒーしか頼まない困った客ではあったろう。

季節は変わり、僕は相変わらず企画業の大きな成果がなく、ツテでいただいたような仕事を受けるだけで、次第にフリーランスと名乗っているだけの失業者のようになって行き、再び「開店休業中」の、かみさんに食べさせてもらう毎日に戻ってしまった。
そんな生活がしばらく続いていても、演奏活動を共にしている仲間内にだけは「企画業は廃業同然」と気が付かれたくないばかりに、僕はそれなりに忙しいフリだけをしながら、誰にも知られないでできるバイトを探すようになった。
バイト探しなら地元の仲間に紹介でもしてもらった方が断然話が早かったのだけれど、「本業はフリーランスの企画業の方だ」なんて息巻いて来た手前、隠れてバイトを探す格好の悪いところだけは、誰にも知られたくはなかった。

程なくして見つけたのが、深夜のラブホテルのフロント勤務だった。
これなら確かに顔は見られない。というより、見られたくないのはむしろ相手の方だろう。そんな事からも、働きに来るのはそれなりに事情を抱えた面々ばかりだった。
たまに警察が逃亡者を探しに来るのだけれど、それは半分は客に対して、半分は働いているスタッフに対しての聞き込みでもあったほどだ。実際に逃亡者の中で一定の人数は、深夜の宿泊業を隠れみのにしているところを捕まるらしい。
そのラブホテルでは、フロントでの採用とはいえ、調理から機械の修理、リネンの洗濯まで、何でも同時並行でやらなければならないという特殊な状況だった。フリーランスになった事で、基本は自宅仕事のため、料理は趣味と言えるほどに家では僕が料理をこなすようになっていたので、レトルトに頼らない調理場でも、意外なほど即戦力として活躍する事ができた。
時には余った材料でスタッフのまかないなども作る場合だってあった。食うや食わずのようなスタッフもいたので、1食分でも浮けば助かるのだから。

とりあえず、そこで週に数日だけ働きながらも、まだそれなりにフリーランスでなんとかならないものかと、ダメ元で営業だけは続けてみるという、どっちつかずの悶々とした日々をしばらくは送っていた。
ライブの話の方は少なくなったままだったけれど、受けられる限りは全て受け続けていた。特に交渉した事はないけれど、少しずつギャラなどの条件も上がっては行き、運良く周りは僕を「おそらく何か副業をしている売れないプロ奏者」と見てくれているようだった。
僕にはこれが好都合だった。独立して失敗したと知れ渡るよりは、遥かにマシだったからだ。

つづく


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