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94話 ジャガからの提案①

バブル崩壊から始まった世の中の不景気は依然として収まる様子もなく、僕の会社も当たり前のようにボーナスなしの状態が続き、もはやそれに疑問すら持たなくなって行った。
僕のような商品開発の仕事は、企画やデザインなど何かと規定しづらい職務が多い為、当時は残業手当など無いのが当たり前だった。つまり好きでやっているボランティア仕事という見られ方だ。
以前なら、会社が残業代の代わりに残業の際の「食事代」を出してくれるのが普通で、繁忙期などは週の半分くらいはそれで夕食費をまかなえていたほどだ。
けれど、経費削減でそれが認められなくなると、誰もが自分にメリットのない残業はみるみる減らすようになり、露骨に定時で帰る人が多くなって行く。さらに上司の側も、電気代の節約等も含め「終わらなければ、残りは家に持って帰ってやれ」との裏の指示を出すようになった。

日本全体が不景気という状況に完全に馴染んでしまい、会社で大人しくさえしていれば問題はないだろうと、社員達の誰もが、目立たぬように夜の飲み会やカラオケなどを復活させ始めた。
次の新入社員が自分の課にも配属されて来たため、一応は僕も指導する後輩を持つような段階になり、後輩達と一緒に酒を飲む席も増えて行った。当然、それらの出費くらいは増えては行くものの、僕は相変わらずの社員寮暮らしのため大幅に生活費を節約でき、少ない収入でもそれなりに独身貴族を満喫できる毎日を楽しんでいた。
加えてこれと言って金の掛かる趣味もなく、揃える電化製品や家具もなければ、彼女を作りデートに行くような甲斐性もなかった。
生活全般に無頓着なままで、ファッションにだって微塵の興味もなく、車やバイクなどにも特に関心は無かった。
食事は相変わらずコンビニのおにぎりやカップ麺が多く、空いたカップを縦に積み上げ、床から天井まで届く柱にして他の寮生に自慢をしているほどだった。
外食をするにしても会社の帰り道にあった「サイゼリヤ」や「くるまやラーメン」のようなチェーン店を交互に選ぶくらいで、食べるメニューすらほとんど変えた事がなかった。

ハーモニカの演奏に関しては、まるで芸事のように鍛錬に明け暮れ、暇さえあればブルースのCDを聴きながら「完コピ(完全に演奏を真似できるようになる事)」を続けていた。
有名なハーモニカ奏者達のCDやライブビデオくらいは気軽に買い漁っていたのだけれど、折角買った音楽のアルバムなのにそれを音楽自体として楽しもうとはせず、ハーモニカが出て来る部分だけを何度も繰り返し聴き返し、それを完コピしては自分の中で満足するだけだった。それが終わった後のCDは、まるでお役御免とばかりに引き出しにしまってしまうのも常だった。予定のない休日などは、それで一日を終えた事すらあるほどの熱中ぶりだった
それなのに、肝心なハーモニカ自体は、壊れれば値ごろな物をしぶしぶ買い替えるくらいで、不思議と楽器道楽まではしようとは思わなかった。庶民的な楽器の代表格である「ハーモニカ」ならではなのかもしれない。
そんな地味で退屈極まりない毎日だったけれど、僕には唯一楽しみにしていた事があった。すっかりBarで開催されるブルースセッションデー通いにはまり、毎週毎週のそれを心待ちにしていたのだ。

ハイレベルなセッションに挑戦し打ちのめされたあの日からもう1年以上が経ち、すでに覚えてもいないほどだった。
ブルースセッションデーを開催しているBarは、月に一度のイベント開催という店が多かったので、僕はいくつかの店の常連になり、毎週違う店に顔を出すようになっていた。
どの店もぼったくられる心配のない値頃で健全な店ばかりで、それぞれの店で使う予算も居酒屋並みの額だった。
僕は、目的がセッション演奏だけなので酒も飲まず、常にコーラかウーロン茶の2択ばかりで、Barの割高なフード類などは注文した事が無かった。そのドリンクだって、いつも注文は2杯までと決めていて、お金に困ってもいないのにまるでお小遣い制の家庭持ちのようなお金の使い方をしていた。
友達を作るのが目的であれば、多少は知り合いになった相手と共に飲んだりという交際費が出ようものだけれど、特にそういう事もなかった。
シンプルにハーモニカのスキルアップのためだけにセッションデーに通っていた僕は、店の名前やマスターや店員さんすら覚える気もなく、手帳に駅名とセッションデーのスケジュールだけを書いていたほどだ。
僕にとってのBarのセッションデーは、ブルースという音楽を楽しむというより、金額分はしっかり個人訓練を積み重ねたいというようなニュアンスの場所で、バッテイングセンターにストレスを解消に行くような感覚だったのかもしれない。

その日も、僕はとあるBarのセッションに来ていた。
もうすっかりBarという場にもセッション演奏にも慣れて、真面目に一番乗りで店に入るなんて格好の悪い事はしない。かといって遅いと演奏の出番も減ってしまうので、そこらへんを上手くやるようにはなっていた。
当たり前のように店に入り、入り口の参加者ノートに「ヒロセ、ブルースハープ」とだけ記入する。あとはドリンクを注文し、それを待ちながら薄暗い店内をキョロキョロと見回す。
どこの店でもギターの参加者ばかりで、ギターのネックが棘山のような影を作る、当たり前の光景だった。
その影の中で、ぶっとい指が大きく揺れ、こちらに合図をしているのが見える。サックス吹きのジャガだった。

「おつかれで~す!!どうもどうも、遅かったですね、広瀬さん。って、私が早いんですけどね!今日も一番ノリでした!!ははは!!どうぞどうぞ、こちらへ。席を温めて置きましたので!!」
この日も、いつものようにジャガのトークは絶好調だった。特に待ち合わせをしている訳でもないのだけど、ジャガが勧める店に顔を出す訳だから、彼と遭うのは自然な事だった。
僕を自分の隣りの席に座らせたジャガは、一息入れる間もなく、その店にいた出会ったばかりという他のハーモニカの参加者を手招きして、来たばかりの僕を紹介をする。
「広瀬さん!こちらの方、今知りあったばかりなんですけれど、ブルースハープを始めてまだ間がないんですって。でね、達人の広瀬さんに紹介したいなって思いまして。どうぞどうぞ、はいっ、お隣り座って!では同業さんって事で!はいっ、後はよろしく!」

僕は恐縮しながら、店の暗がりからあまり顔のわからない状態で相手の方に会釈をし、簡単な挨拶を交わす。相手も、すでにジャガから僕の事を大げさに聞いていたようで、僕以上に恐縮している様子で話し掛けて来る。
「あっ、え~と、別のお店のセッションなんですけれど、あなたのハープを聴いた事があります。なんか、いろんなポジションで吹かれてて、すげぇ、驚きました。あれって、何ポジションなんだろうなって。え~と、マディの曲なんですけど」
「そうですか~。はいはい、え~と、マディの、どんな感じの曲でしたかね?」
僕はマニアックなハーモニカの質問に、喜んで応えさせてもらう。当然、話し方が偉そうにならないようには気をつけてはいたものの、この頃には、それなりに臆せず会話できるくらいの社交性は持っていた。それはセッションに行くたびに「ハーモニカの技術的な質問」をされる機会が多くなっていたからだった。まぁ、ハーモニカの先輩というよりも、ハーモニカヲタクやマニアと言ったところだろう。
ただジャガだけは、いつ会っても、まだまだの段階の僕を、すでに一人前となったハーモニカ奏者のように扱い続けてくれていた。

セッションデーでジャガと会うのは、月に2~3度ほどだった。お互いに連絡先は教え合ってはいたものの、結局は「どこかの店で、また会いましょう」という事になるので、それがちょうど良い距離感のまま続いていた。
店がBarなので酒の席なのだけれど、ジャガは軽くビールを飲むくらいだし、僕は全く飲まないので、Barにいながらも喫茶店で話をしているような感じだった。
どの店でもすぐにセッション演奏は始まってしまうし、終われば店に長居もしないので、演奏の合間や休憩時間に軽くセッション曲の話をするくらいのものだった。
お互いに突っ込んだ話もせず、気まずくなった事もない。僕の会社の話をした事もなかったし、ジャガの私生活についても何も知らないままだった。
音楽での人間関係は、Barという場を挟むようになっただけで、ストリートミュージックをやっていた頃とそう変わらなかった。それが心地良くもあり、またブルースという音楽やセッション仲間っぽいのかもなとも思えていた。

やがて、店のセッションデーが始まり、数セット目には司会者が僕の名前を呼んだ。
「え~と、じゃあ、ハープはヒロセさん。いらっしゃいますか?」
僕が返事をする前に、ジャガに先を越されてしまう。
「はいは~い、スーパーハープの広瀬さんはここで~す!!」
僕は慌てて否定する。
「辞めて下さいよ!!はい、僕です、普通のハープです、行きます!!」
ケラケラと笑うジャガを後に、ステージに向かう。
そのセットのリーダーのギターボーカルの参加者から「なに?君、スーパーハープなの?そりゃあ、光栄だなぁ~」なんてからかわれ、僕は大げさにそれを否定しながら、セッション曲の打ち合わせに加わる。
曲名、Key、テンポなど、次々に演奏の構成が指示として出され、僕は自分のハーモニカマイクをセッティングしながらそれぞれに返事をする。そのスピードは早口言葉のようなものだった。セッションでの会話はある程度限られるし、慣れてくればなおさらだ。
打ち合わせが済むやいなや演奏はすぐに始まり、手慣れた集団のグルーブに、僕は構える事無く自然に身を委ねる。
僕は演奏前に、別のハーモニカの参加者から尊敬された事で天狗になっていたので、テクニックを少々披露するようなつもりで演奏してみる。
セッションメンバー達は「おっ」と嬉しそうな顔をする。僕はそれなりにテクニカルに見えるようにハーモニカを演奏しながらも、空いた片手で「どうもどうも」と愛嬌良くやって、余裕を見せる。

そんな事をしていると、つま先立ちをしながら首をひょいとのばし、僕の演奏をにらみつけるように観ている人と目が合った。おそらく、それなりに自信のあるハーモニカの参加者なのだろう。アマチュアの中にも当然下剋上はあるのだ。
その人の見た目がなかなかに強面だったので、僕はさっとボリュームを下げ目にして、演奏も控えめに振る舞い始める。こういう場に慣れて来たとはいえ、僕は相変わらず気が弱いままで、見た目の怖い人は勘弁願いたかった。ましてやここは皆が酒を飲むBarなのだから。
控えめな演奏に変える僕を見て、また客席のジャガは「ヘイ!ハープ、ワンモア!ヘイヘイ!!」なんて、草野球のチームメイトみたいな声を出して来る。それで客席に軽い笑いが起き、ありがたい事に少々の緊張感くらいならすぐにかき消してくれるのだった。
一方、ジャガの演奏の方も相変わらずで、プロ志向なので当たり前に技術力はあるものの、なかなかブルースの独特のルーズな感じや、訴え掛けて来るような熱いフィーリングを出す事ができず、「全く、いつまでも、普通の音なんだよなぁ~」とお決まりの自虐を口にするのだった。

そんな中、僕はこの日、ジャガから少しだけお互いの関係に変化が起こりそうな提案をされる事になった。それはセッションという現場に行き慣れて来れば、自然に回って来るような、嬉しい機会でもあった。
つづく


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