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107話 『広瀬企画室』①

僕とかみさんのIターンもすでに半年以上が経ち、すっかり愛知・岐阜という地域性に慣れ親しんだ頃、僕は軌道に乗り始めた演奏活動だけではなく、仕事の面でも調子づくようになっていた。
会社の規模が小さい事で、自分の発想を自分の感覚だけで商品にまでまとめられ、それを売り込むところまでの一括した流れを一通り経験させてもらえたおかげで、それをさらにもっと先まで1人だけで行えるようになりたいと、思い描くようになり始めていた。
そんな日々の中で、あろう事か、ちょっとした仕事のしづらさから人間関係がギクシャクしたのが元で、僕は、いきなり世話になった会社を辞め、フリーランスの自営業として、独立を決心してしまったのだ。

また今回もかみさんに大した相談もせず、何の見込みも立っていないままに、それを一人で勝手に決めてしまったのだ。一年ほど前に、感情に任せて直談判のように会社の上司に食って掛かった結果、せっかくの大手企業を辞める事にまでなった失敗を経験したというのに、引っ越して来てまだ1年も経っていない新天地で、さらに先の見えない出発をしてしまったのだ。ましてや、今回は気楽な独身者ではない。結婚をしたばかりの身だというのに。

さすがに新婚のかみさんには申し訳がないとは思いつつも、かみさんの方は、最初の会社も含め「2度ある事は」と覚悟していたかのように、その判断を応援してくれるというだけだった。彼女自身の仕事の収入がしっかりとあったのもあって、それほど慌ててもいないようだった。

まだインターネットが普及するギリギリ前の時代。僕は、とってつけたような「広瀬企画室」という屋号で、急ごしらえの手描きのイラストっぽい名刺だけを作り、まるで計画性のないこれからの未来に鼻息を荒くした。
同時に、せっかく軌道に乗り掛けたバンド活動ではあったけれど、今回は仕事での独立ともなる訳なので、さすがにしばらくは音楽どころではないだろうなと、僕はまたあっさりハーモニカを封印しようかと考えていた。
こうも何かある度にすぐしまい込まれるのでは、いいかげんハーモニカの方だって、「おい!お前なぁ~!またかよ!?」と、文句の一つも言いたいところだろう。

けれど、今回はその流れにはならなかった。
ライブの話が定期的に続き、それには少なからずギャラがついているのだから、額面的に仕事とまでは言えなくとも、決してただの趣味とは言えなかった。それどころか、出演する店や共演者は、僕をプロとして扱い、その後の演奏活動まで考えてくれているのだ。
「これからは一人で何でもやってやるぞ!」と意気込む僕は、この段階で、大きく考え方を変える事になった。フリーランスで動くからには全ては仕事になりうる、いや、事業化できるはずなのだと。

それからの僕は、企画業を請け負うのと同じように、金額面こそはっきりとは口にはしないまでも「どんな演奏話でも回して」と、ライブ活動に関していきなり貪欲になって行った。
それを機に、周りの友人バンドマン達にも自分の仕事での独立を熱く説明したのだけれど、拍子抜けをするほどに、特に気に留めてくれる人はいなかった。バンドマンという人種自体が、もともと真剣に音楽を仕事にすべく生き、無理な分を泣く泣く副業で埋めているという訳なので、僕の企画業の方を「副業」のように軽く受け流し、それで話は終わりだったのだ。
現に副業で教室で楽器を教えていたり、普段はライブハウスのスタッフとして働いていたり、個人で何かの輸入品の通販をやっているようなバンド仲間もいたので、僕のもその「企画版」といったところなのかもしれない。
加えて、演奏者の派遣会社が「◯◯企画」と名乗っている場合が多かったので、僕の「広瀬企画室」という屋号も、そのように誤解され受け止められたのかもしれなかった。

あるギタリストが人に僕を紹介する時に、「昼間は『社長さん、こんなもの考えたんで、お金下さいよ』って、アイデアを売り込む仕事をやっているハーモニカ奏者だ」と言っているのを聞いた事があった。(もっとマシな言い方ないのかな)とは思いつつも、まぁそんな風に見えるなら、それでも別にいいやと思うようになって行った。
周りのバンドマン達は音楽は中心軸、それが僕にとってはフリーランスの企画業の方という違いだけなのだから。

こうして、フリーランスとして独立したからにはと、僕は引っ越して来てから知り合った様々な仕事の人脈に、がむしゃらに自分を売り込んで回る事から始めた。
最初に見込んでいた知り合いや仕事のツテなどは、ものの一ヶ月で当たり前のように総崩れになってしまったけれど、僕は一向に滅気る事なく、片っ端から営業の連絡をし、アポを取り付けては、その懐に飛び込んで行った。よく行く飲食店や買い物をする洋服店、前の会社の同僚や、時にはかみさんが働く会社の同僚にまで。
その時はたとえ成果が無くても、不思議といつでも空が青々と見え、自分はどこまでも広がる澄み切った空間を自由に飛び回っているような気がして、一日中冷めやらぬ興奮の中にいるようなものだった。
結果「あそこもダメだった」「ここも断られた」という残念な報告ばかりだったけれど、かみさんはいつもニコニコと僕の話を聞いてくれた。それこそ「誰だって最初はそうなんじゃない」という慰めのセリフが、まるで日々の決まり文句のようになって行った。

そんな感じで、数ヶ月ほどの間は、お試しでもらえた「無料でのコンペのようなチャンス」や、良くても「依頼した場合の見積もりを聞かれる」程度の成果で、まるで仕事になる当ても無いままの毎日が過ぎて行った。それこそ定期的に続いていた店での演奏の機会だけが、わずかな小遣い稼ぎ程度の収入源だった。
そのギャラだけでやっているというバンドマンが周りには数名いたので、一体どうやって生きているのだろうかと不思議だったけれど、僕の側もあまり自分の状況を聞かれたくはなかったので、こちらからも特に聞いたりはしなかった。後になると、そんなバンドマンの数人は「資産家」だったり「有力者の身内」だったり、はたまた「宗教関係の活動」だったりと、それなりに続けられる理由がある事を知るようになるのだけれど。
実際に演奏だけで食べて行ける人など、そうはいないのだ。

半年ほど経った頃だろうか、すでにアポすら受けてくれる相手もいなくなって来て、早くも自分にはフリーランスなんて無理だったのかと諦めムードになって来ていた。それこそ、会ってさえくれればそれだけでもありがたいくらいにまで卑屈になっていたところに、僕はひとつの突破口を見つける。

それが地域の「お土産店」だった。
地元となった岐阜県は、自然豊かな観光地を数多く抱えており、当時はどこでも「町おこし」という言葉がひしめき、地元の名産品を全国へという動きが活発だった。そのために町側はとりあえず不似合いなほどの大型施設だけを先に建築し、「後は地元で考えなさいね」という放り投げ状態のままになっている状況がほとんどだった。

この分野に目を付けた僕は、ふと最初のおもちゃ会社で別のフロアにあった「お土産商品担当の事業部」が、不景気のどん底でも細々と販売を持続できていたのを思い出した。観光地というのは、ちょっとしたアイデアひとつで充分に商売になっている場合も多く、ひょっとしたら企画業の自分にも何かのチャンスがあるやもと思い立ち、急いで地元のこの分野について調べ始めた。
すると驚くほど、それぞれの観光地に個性的なお土産店が存在していて、おのおのでユニークなオリジナル商品を扱っているではないか。もちろんそれらは僕のような企画屋を入れてまでやるような規模ではなく、思いつきのダジャレを商品名にしただけのものや、一過性の流行りに合わせた模倣品のような物や便乗商品のようなものばかりだったのだけれど、会社や土産店の規模から言っても僕のような個人事業者に会ってくれるくらいの可能性は見込めそうだった。なんならアポ無しで、直接売り場へ飛び込んで話し掛けたっていいのだから。それこそが、本当の飛び込み営業ではないか。

「思い立ったが吉日」とばかりに、僕はすぐに行動を起こした。ワラにもすがるような想いで、ただの観光客のようなフリをして、それぞれの観光地の土産店を回り始めたのだ。
訪ねてみると、実際には開店休業みたいな状況の店もあったし、どう頑張っても、自分が何の興味も持てなそうな店も多かった。
それでも、自分が「どんな小さな企画でも提案できるような訓練をしている」くらいのつもりで、売り場のスタッフさんを見つけては、まめに話し掛けて、情報を引き出すための世間話や、提案のキッカケ作りを続けて行った。
その会話の中で、「こういう成功例がある」とか「自分だったらこうする」とか熱く話している内に、数件目のある店で、店のスタッフの一人が、僕の話に身を乗り出して来てくれたのだった。

相手は僕の来店を素晴らしい出会いのように言い、今まで素人だけでやって来た店なのだけれど、今後どうして行くかで知恵を絞ってくれている地元の若い人がいるので、その人とぜひ会ってみて欲しいと言い出したのだ。
そこで僕はすかさず「実は自分はフリーランスの企画屋です」と改めて自己紹介し、自分の名刺を渡した。すると、なんとその場で担当者に電話をしてくれ、相手は目と鼻の先にいるので、このままその足で訪ねて欲しいという話にまでなったのだ。

あまりにも急な展開ではあったけれど、暇な僕にとっては渡りに船だった。
相手は何度も「行っても無駄足になるかもしれないけれど」と念を押すものの、僕はまるで幸運を掴んだかのように興奮しながら、紹介されたその人物の元を訪ねるのだった。

つづく


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