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115話 水商売入門②

1年後、ラブホテルでのアルバイト仕事にすっかり慣れて、連休などが入るたび通う日数も増えて行った。
とはいえ正直良い職場とは言えず、反社のような従業員や、借金まみれで逃げて来たような臨時雇いの訳ありスタッフ達に囲まれ、事件の一歩手前の荒っぽい職場トラブルも日常茶飯事だった。
実際に近くのラブホテルでは部屋で殺人事件があり、ベットの下に死体を隠していたのを知らず、そのまましばらく部屋貸しを続けていたなんて話もあったほどだ。それを聞いたスタッフ達はそう驚く事もなく「掃除が面倒だろうな」と、笑いながら言うくらいなものだった。

そんな訳ありだらけのスタッフの中で、唯一というくらいの普通の経歴だった僕は、ラブホテルの店長からフル勤務を打診され始める。つまり「腰掛けではなく、正規のスタッフにならないか?」という事だ。
そんな話が出た事で、結局は当てにならない小遣いのようなギャラの演奏以外に、これといった企画の仕事もないまま、気がつけば僕は水商売の世界にどっぷりとつかってしまっていたのだと、ようやく気が付かされた。
もう若くもない売れないバンドマンなんて、世間体最悪のダメ人間の見本ではないか。
確かに収入面を考えれば、決め時ではあったのかもしれなかった。

その頃、例え成果にはならなくとも、ルーティンとして書き続けていた企画書すら、まるで書けなくなってしまっていた。
そのもどかしさで、僕はブルースセッションに通って常連になった店のマスターに、店のイベント案やステージのディスプレイ案を、いくつかスケッチで出して見せた。それこそ、その企画書は遊びの範囲で、その場の話が盛り上がれば良いというくらいのものだった。
正直僕にとっては、久しぶりの無理矢理にでもと書き上げた企画書で、自分がまだ企画を考えられる自信を取り戻すための、柔軟体操のようなものだった。
なによりマスターは誰よりも人当たりが柔らかいので、キツイ事は言わないでいてくれるだろうという甘えもあった。

僕の企画書を見たマスターは驚き、その内容を喜んではくれたものの、当然小さな店で実現できるような現実的なアイデアはひとつも無く、マスターとの距離が近づいただけだった。
ただそれがきっかけとなり、僕はマスターとBarという営業形態について、明らかに突っ込んだ話をするようになって行った。

マスターは以前、音楽ではない普通のスナックで修行した人で、よそのミュージックBarの話を知りたいようだった。一方の僕は東京も含めてそれなりの数のミュージックBar通いの経験があったので、その情報を話した。
マスターは自分の店について、最初の頃の夢と現実との違いを話し、一方の僕は客側と出演者という2つの視点から、店の問題点などを話して行く。話はいつまでも盛り上がり、僕とマスターは、よく閉店まで語り合うようになった。

やがて、マスターが僕の企画書の中で気に入ったという、意外な部分を教えてくれた。
それは僕が書く「文字」だった。漫画っぽい丸文字で、確かに今までにもほめられた事は多かった。当然PCが普及する前の話だ。マスターは実に味がある文字なので、ぜひ店のメニューを書いて欲しいと言うのだ。
ただ残念な事に、店は薄暗く、メニューは写真やイラストなどのデザインまでは必要が無く、黒に白抜きの文字のみの、ブルースの店らしいぶっきらぼうな小さなメニューで良いという事だった。
黒で書き、反転コピーをすればもうそれで完成で、一時間も掛からない作業なので、当然仕事にはならないものだった。
いくらでも時間はあった時期なので、飲み代のおごりくらいの謝礼で書く事になった。

ただその話が元になり、どうせメニューを書き直すのならと、メニュー自体についても見直そうという流れになり、また話題はいつまでも盛り上がって行った。
僕はちょうどこの時、ラブホテルで調理の方をやっていたので、冷凍食品やレトルトなどの早く出せるメニューに詳しかった。
マスターはそれを興味津々で聞くものの、今のスタッフで考えるとそこまでの調理は無理との事で、そのままの流れでマスターは「調理ができるアルバイトのつてはないか」と僕に聞いて来た。
僕は驚き、今のスタッフの状況について聞いてみると、よく見掛けていた常勤の店番の1人に辞めてもらうというタイミングだったのだ。
その人は実はマスターの身内で、ブラブラしているのならとしばらくは自分の店で働いてもらったのだけれど、そろそろちゃんとした昼間の仕事を探すよう、話すつもりだったらしいのだ。

これを聞いた僕の頭は、パニックになるほど高速回転をし始めた。
金額や諸条件はわからないものの、今の自分ならばぴったりではないか。ラブホテルのバイトのせいですでに夜型の生活も長く、この店の常連のほとんどとも知り合いで、おおよその相手からはハーモニカでの信頼もあり相談者なども多かった。ましてやここならば、働きながらでもちょっと気軽に1~2曲くらいはセッションで吹く事もできそうだし、ひょっとしたら、自分のバンドのライブをこの店で演る時に、常連さんが集まって来るようになるかもしれないと。

一方、僕のラブホテルのフロント業務は一年を超え、正社員として割りと待遇の良い打診をもらい、そろそろ返事をするべきタイミングでもあった。
とはいうものの、ラブホテルはかなりブラックな世界。労働条件はそれほど悪くはないものの、業界自体が決して健全ではない。現にスタッフ達からは「広瀬さんみたいなちゃんとした人は、こんなところにいてはいけない」と何度も言われていたし、特に「1年を超えると、もう普通の感覚が無くなる」業界らしいのだ。
宮崎駿の「千と千尋の神隠し」に出て来る名前を忘れてしまうというエピソードは、夜の業界をイメージして作ったらしいけれど、まるでそのままの世界らしい。

僕はこのタイミングで、初めてマスターに自分の行き場のない状況を打ち明けた。そして、自分の調理場での経験や、今まではそんなに真剣ではなかった「音楽周りで仕事を見つけられれば最高だ」との本音を、素直に話してみた。
マスターは予想もしていなかった話の展開に、かなり驚いているようだった。
それに雇う相手が僕となると、考えていたスタッフより一回り近くも歳が行っており、かなり難しい判断だったようだ。
ただ常勤が可能ならば、年齢的にもむしろ留守を任せる事もでき、マスター自身も時間が自由になるので、密かに考えていた次の店の展開に向けて動けそうとの話だった。

マスターは少しトーンを変え、水商売に関しての普通の世界との違いや心得のようなものを僕に話してくれた。それなりの覚悟が必要だと。けれど僕には、さしてその必要は無さそうだった。すでに、もっと特殊な「水商売の世界」に1年以上浸かっていたのだから。

数日後、僕はラブホテルを辞め、同時にいよいよフリーランスの企画屋の廃業をはっきりと決心し、新規一転、マスターに弟子入りするかのように、バーテンダー見習いとなった。
この店では、僕は多くの常連さん達とも上手くやれているし、ブルースの店でハーモニカ奏者が働いているのも自然だろうと、最高の解決策に安易に舞い上がっていた。
すでに30代前半。またもや自分で勝手に決めてしまって、これはさすがに結婚している人間のやる事ではないなと、僕はまたいつものかみさんへの事後報告が気が気ではなかった。今までのいい加減な月日を考えたって、もはや、いつ離婚されてもおかしくはないのだから。

けれど、この流れを喜んでくれたのは、他ならぬかみさんの方だった。
独立が上手く行かず、すっかり目的を失った僕が、ようやくひとつの大きな指針を見つけたように感じてくれたのだった。
今までも一緒にいて、僕が一体今後どうして行きたいのか見えて来ず、さぞ不安だったろう。僕が自分でなんとか道を見つけ出するのを、ただ待ってくれていたのだ。
それに趣味としか言いようのない範囲の僕のハーモニカ演奏を、僕以上に大切に考えてくれていた事を、この時に初めて思い知らされた。趣味に毛が生えたような、大した才能でもないというのに。

こうして僕は、かなり場当たり的ではあるものの、新たなる進路へと進む事になった。
もちろん、まだまだ問題は山積みだった。
安易に得意なハーモニカを活かせそうな飲食業に方針転換したというだけで、生活を立て直す道筋は、全く何も決まっていないのだ。
しばらくはバーテンダーをするにしても、下積みの先をどうするのかが最大の問題だった。
将来自分で店でも始めるのか。あるいは演奏のプロとして勝負する覚悟があるのか。それとも思い切って調理師免許を取って、真剣に料理人でも目指すのか。
また今回の転身も、転がる石のように、いつまでも成り行き任せのまま、とりあえず一旦着地できたくらいのものだった。
場所がブルースセッションを行うBarだけに、これが僕の新たなる「クロスロード」なのだとすれば、これから待っているのが本当の悪魔との契約なのかもしれなかった。

つづく


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