本多忠勝のはなし
ー初陣編ー
ー初陣編ーは、平八郎殿が初陣から初首を挙げるまでのおはなしである。
本多忠勝は天文17年2月8日、三河国額田郡蔵前(現愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれた。幼名は鍋之助。なべさんである。
天文18年にお父上・本多忠高が戦死し、叔父上の忠真を頼る。
永禄2年・12歳で元服し、平八郎忠勝に改名。故に平八郎殿と呼んでいる。
本多家は、昔から徳川家の家臣として仕えており、平八郎殿も小姓として
松平元康様(のちの徳川家康)に仕える。
平八郎殿の初陣は永禄3年・大高城兵糧入れであり、鷲津砦の戦い、登谷ヶ根城攻めと続く。
大高城兵糧入れは、その名の通り、大高城で戦っている味方にごはんを届けよう作戦である。
「なんだめしはこびか。」と思われるかもしれないが、大高城は周りに敵方(織田軍)の砦を作られまくり、味方(今川軍)との交通を遮断されていたため、兵糧を入れるのに困難を極めたのである。
しかし、元康(家康)様と家臣団の知恵と度胸で、任務は無事成功。
平八郎殿も兵糧を積んだ馬と元康(家康)様を必死で守ったことだろう。
続く鷲津砦の戦いでは、早くも平八郎殿にピンチが訪れる。
敵方(織田軍)の山崎多十郎なる武将に討ち取られそうになるのだ。
平八郎殿危うし!のところに叔父上・忠真が、槍を投げつけて救ってくれたのである。叔父上も槍の名手とは、素敵すぎる。
そして、平八郎殿14歳・登谷ヶ根城攻めでは、叔父上・忠真が、初首を挙げられていなかった忠勝に、なんとかして初首を挙げさせようと奮闘。
叔父上が槍で倒した敵兵を「忠勝!この首を持って汝の手柄とせよ!」と言ったところ、なんと平八郎殿は
「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」
と言って、自分自身の力で敵を倒し、初首を挙げたのである。
当時は、元服し戦に出れば、早く立派な武士として成果を出すため(当主&御家の名誉を守るため)、ベテラン後見人が倒した敵の首を取って初首とする、言わば接待初首も珍しくなかった。
が、しかし、平八郎殿は叔父上の接待初首を断り、「他人の力を借りて武功を立てようとは思いません。」と言い放ったのである。
言うだけなら誰でもできるが、平八郎殿は有言実行、自ら敵を倒し、見事に初首を挙げたのである。
このことについて、私は次のように思いを巡らせる。
「兵糧を入れる」という決して派手な初陣とならなかった大高城。
討ち取られそうになった挙句、叔父上に救われた鷲津砦。
武士として、活躍したかっただろうし、きっと悔しかったに違いない。
また、小さいころにお父上を亡くし、叔父上にお世話になった身の上。
一日でも早く武士として成果を出し「自分は本多家の当主として相応しい」と周りに認められ、本多家の人々(お母上含め)を安心させ、何より自分自身も納得したかったのではないだろうか。
そんな思いが
「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」
この言葉に集約されていると私は思う。
ー初陣編ー完
次回-名槍・蜻蛉切編ー
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?