見出し画像

創作は孤独との戦い。でも、だからこそ、負けないで。

 ――執筆は孤独との戦い。

 小説を書こうとするかたは一度は耳にした言葉ではないでしょうか?
 小説家を志そうとしたことがないかたでも、一度は聞いたことのある言葉かもしれませんね。

 私には夢があります。でっかいでっかい夢が。
 今の私の夢は、「エッセイを書いています」と自己紹介欄に書くことの出来る私になることです。

 ちょっと前までの私は「小説を書いています」と言える私になりたいともがいていました。

 ◇◇◇

 小説が書けるようになりたいと、某小説サイトで投稿を繰り返していたのですが、芽が出ませんでした。
 全くイイねが押してもらえない。最終話にさえコメントがつかない。反応がもらえないどころか、そもそも小説を読んでくださるかたが二ケタに届いたことすらない。(ページを開いてくれた人の数がカウントされており作者がそれを見ることの出来るシステムでした)
 Twitterでアップ紹介をしてもそちらへの反応も皆無。小説と関係のないたわいない呟きすらへも反応が薄い。

 苦しくて苦しくて、私と関わってくださるさるお方に泣きついた時、その言葉を教えられました。

 ーー執筆は孤独との戦いだからね。

 でもね。
 私はその時、「そうなのですね」とは思えませんでした。

 だって。
 私以外の方々は、同志で切磋琢磨。投稿した小説にイイねをたくさんもらえているし、コメントもしあっている。
 Twitterで「5万字の作品を書き終えました。次はこの作品を3万字に削らなければなりません。頑張るぞ」と呟けば、同志たちからイイねがもらえ、「応援してます!」「読むことの出来る日が楽しみです!」と反応をもらえている。

「どこが孤独なの?」

 そしてまた。
「今日は気分が乗らず一文字も作品に重ねることが出来ませんでした」とTwitterで呟けば、たちまち同志たちからイイねがもらえ、「そういう日もありますよね」と反応がもらえている。

「どこが孤独なの?」

 作品を執筆中も、そして執筆を終え読者に向けて作品を発表したあとも、同志の存在を感じることが出来ているじゃない。

「どこが孤独なの? 孤独なのは私だけだよ」

 言われる度に悔しくて惨めで、余計に辛くなっていました。


 他、リアル生活の変化などもあり、その某小説サイトから去った今でも、時折思いだしていました。

「執筆は孤独との戦いだなんて嘘だよね?」

 記憶の波からふいに顔を出すその言葉は静かに、でも確実に私の心を海の底へと引きずりこんでいきます。
 絡みつくその呪縛に呑まれていく感覚があるのに、リアルの生活がどんどん暗く重たいものになっていくことに気づいているのに、そこから目を離すことができない。見つめ続けてしまう。

「執筆は孤独との戦いっていうのは本当のことなの?」

 ――本当に執筆は孤独との戦いなのかもしれない。

  もやもやっとしたなにかが、私に目を背けてはいけないと訴えてきているような、そんな感覚でもあったのでした。


 そんな私は、最近、壊れていました。

 なんとなく覗いていたネットニュースに、妙にひかれる記事を見かけてからです。

 それは、ドラマ『セクシー田中さん』の原作者の自殺を報じる記事でした。
 なんとなく気になり、ニュース記事の下のほうにある読者からのコメントを見て驚愕しました。

 ――創作者という意味で同志といえる人たちから壮絶な仲間外れを受けていた?

 むさぼるようにコメントを読み、脚本家やその取り巻きが彼女にしてきたことを告白するようなものばかりにイイネを押しました。
『セクシー田中さん』とタイトルに出てくる記事を次、次と開き、記事を読むのはそこそこに、下に出てくるコメントを夢中になって読み漁りました。

 ――こんなことに時間を使っちゃいけない。ひどいネット依存だ。やめなくちゃ。

 そう思うのに、なぜかパソコン前から離れることが出来ません。
 苦しくて苦しくてたまらなかった昨日、ふと「今日は漫画の日」というフレーズを見かけてハッとしました。

 漫画『セクシー田中さん』からの漫画の日。

 なぜ今日、2月9日が漫画の日であるのかを調べたくてたまらなくなりました。いえ、「調べるべきだ」と直感しました。

 調べて大正解でした。
 漫画の日として制定された奥には、漫画の神様であられる手塚治虫先生の存在がありました。

 手塚治虫先生に触れたことで、私にこびりついていた「なにか」が音を立て浄化されていくのが感じられました。

(漫画の日からの、私にこびりついていた「なにか」の浄化を語りたいと、夜中、日付が変わる直前ぎりぎりに記事を一つアップしました。
 投稿して数分後、浄化についての文言は完全に別記事にしようと全て削除しています)
 ↓↓↓

 ◇◇◇

 漫画『セクシー田中さん』の作者であられる芦原妃名子さん。
 ネットニュースのコメント欄で散見されるひどいいじめに本当に遭っていたのかもしれないし、どれもこれもあることないこと。尾ひれはひれのついた、いわばフィクションのようなものなのかもしれない。
 彼女が亡くなった今、「本当のところ」はわからないのですよね。もう永遠に。

「第二のセクシー田中さんを生まないために」と方々で議論がなされているそう。
 原作者を蚊帳の外に置かないルール作りも議論されているということですが、そういうことではないのではないかなって、うっすらと私は思い始めています。

 作品はチームで作るという意識を一人一人が持てば良い。ただそれだけなんじゃない?

 こう思えて仕方ないのです。

 芦原妃名子さん、自身をチームの一員だと考えておられたようです。

 ↓↓↓

【原作者コメント】
音楽やダンス、ショーの臨場感、私の画力じゃ表現し得ないものが沢山あって、日頃歯痒い思いをしながら漫画を描いてます。
凛としてるけど繊細で、強くて弱くて大人で少女の様な多面的な田中さんを、きっと木南さんならより魅力的に演じてくださるはず。音楽とダンスと素敵なキャストの皆さんとのコラボ、楽しみにしています!

日テレ『セクシー田中さん』 番組公式hpよりの「原作」というタグより

 文末の「コラボ」という表現に、その想いが溢れています。

 こんなに生き生きと、楽しそうにドラマの制作がされていくことに期待を膨らませていた芦原さんなのに、どうして……。

 彼女は逝ってしまいました。
「どうして」と問い続けることになんの意味があるのか。


 作品はチームで作り上げるもの。
 ただでも。

 仲良しごっこで、忖度をしあいながら進めていくのは違うよね。

 一人一人が作品と真摯に向き合い、それぞれの「孤」の想いがかけ合わさって積み重ねられた結果が完結作品へと繋がっていくんだ。

 ――執筆は孤独との戦いというあの言葉は、そういう意味だったのではなかろうか?

 私の頭の中は今、この想いだけで溢れています。

 どんなに温かい仲間に囲まれた環境にあっても、小説を書いている時は孤。画面の向こうで見守る同志がいるのか、いないのかなんて関係ない。

 作者がうじうじと「私には画面の向こうで見守る仲間が一人もいない」だとか「アップしても誰も反応してくれない」だとか「そもそも読んでもらえない」だとか嘆きながら書いた作品が、心に刺さる文章になっていくはずがないよね。

 孤独との戦いの意味が、今の私にははっきり見えているような気がしています。


 これは、小説など文字だけの世界に当てはまる執筆という枠を超えて、創作活動に励もうとする全ての人に当てはまる言葉なのではないかなと思っています。

 創作は孤独との戦いから始まるもの。

 もし、万が一、チームの一員と見なされずに孤を感じて苦しんでいる人がいたとしたら。

 創作は孤から始まるものです。真摯に向き合うその想いは、作品に必ず降り積もっていく。

 死ぬな。逃げるな。生きろ。

「どうせ」なんて投げやりにならず、創作活動が出来るということ自体に感謝の気持ちをもって、創作を楽しんでいこうではありませんか。

 私自身をまず筆頭に、必要な人にこの言葉が届きますように。

 それでは、また。
 今日から三連休の人が多いでしょうか?
 どうぞ心穏やかな今日をお過ごしくださいませ。

 最後に。
 芦原妃名子先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?