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4 seasons ― lost village 第4章

秋雨と七色の虹 


夏の名残を背負った子どもたちが、わたしの横を元気よく駆け抜けてゆく。

久しぶりに、級友たちと会う喜びが、体中から伝わってくるようだ。

彼らのランドセルは、太陽の光を浴びて、赤、黒、青、緑、ピンク、グレー、ブラウンに輝いて、とても美しかった。

歩道の街路樹には、夏の始まりから秋の入り口まで、サルスベリが濃いピンクや白の花を愛嬌良く咲かせている。

一方で、イチョウやケヤキは、薄い黄色や茶色の葉を落として、いち早く冬の訪れに備えていた。

今日はいつもの景色がまるで違って見えた。

ルッツから湖畔の散策に誘われて、慣れない時間に外出をしているせいかもしれない。それとも、あまり着馴れていない真っ白なワンピースのせい?

「おはようございます。今日はとても良いお天気ですね」

「本当に。清々しい秋晴れですね」

この頃のわたしたちは、まだどこか他人行儀で、お互いに照れや遠慮があった。

「今日は、湖畔に集まる野鳥を観察に来ました。たぶん、ハンナさんも楽しめると思いますよ」

ルッツはわたしの首に望遠鏡をかけた

「もしかしてバードウォッチングですか?」

「はい、そのつもりですけど……何か?」

彼は平然とした顔で答えると、とても良いスポットがあるからと言って、足早に歩き出した。

わたしは、彼の後姿を追いかけるようについてゆく。

プラタナスの並木道をくぐりぬけると、原生林の広がる湖畔に出た。

「このルートは初めてです。ちょうど湖の後ろ側にあたるのですね。こんな場所があったなんて。ルッツさんには教えられることばかりです」

わたしは少し息を切らしながら早口で話した。

「ごめんなさい。スタスタとひとりで歩いてしまいました。ハンナさん、いつもジーンズだから。白のワンピースにピンクのカーディガンはちょっと意外でした」

「何だか恥ずかしいです。あまり見ないでもらえますか?」

「すみません。とてもお似合いですよ。まさかカゴバッグにサンドウィッチとフルーツが入っているとか?」

「まぁ、そうですけど。わたし、別にピクニック気分で来たわけじゃありませんから」

「わかっていますよ。もう少し歩くので、とりあえず身軽にいきませんか? ここに荷物を置いてください」

ルッツは、木陰のちょうど良さそうな場所にレジャーシートを広げると、手際よく四方をピンで留めた。

わたしは、促されるまま、カゴバックと温かな珈琲の入ったポットを置く。

彼は、納得したように頷くと、ゆっくりと先程と反対の道を歩き出した。

今度は、ひとりで颯爽と歩こうとせず、わたしの方を何度も振り返って「足元に気をつけて」と気遣ってくれた。彼の優しさがうれしい。

地面には、松ボックリ、ドングリ、何かの赤い実や枯れ葉が落ちていて、注意深く歩かなければ転んでしまいそうな状態だった。

突然、ルッツは立ち止まると前方を静かに見つめていた。そこには、小さな鳥がせわしなく動き、木々の隙間から、赤い羽が見え隠れしている姿が見えた。

「野鳥は物音に敏感で警戒心も強いので。小声で話しますね。あそこのヤドリギにとまっている赤い鳥は、ベニマシコのオスです。夏は、毛色が一段と鮮やかなので、比較的見つけやすい鳥です」

「はい、とても目立っていますね」

まだ目には見えないけれど、無数の鳥のさえずりが一面に広がって、心地よく感じる。

ここは、鳥たちにとっても、わたしたち人間にとっても、手つかずの楽園のような場所だ。

「今、小枝にとまった鳥は、どことなくスズメに似ていますけれど、よく見るとおなかが黄色くて可愛らしいですね」

「あれはシマアオジです。とても美しいさえずりですよね。今では密猟のせいで絶滅危惧種になってしまいました。滅多にお目にかかれない鳥ですが、今日出会えたのは、保護活動に尽力されている方々のおかげです」

「この鳥には切ない物語があるのですね」

ルッツは望遠鏡を覗きながら「観て」と、5メートルほど先の枯れ枝を指差した。

「あれはノビタキです。オスは夏と冬で羽色が変わります。今はまだ夏毛が残っているので、背中の黒が目立ちますけれど、冬にはメスと同じ橙がかった茶色になります」

「夏毛と冬毛があるなんて。知りませんでした」

「はい。彼らは夏に繁殖する鳥なので。今ここにいる鳥たちも、もうじき暖かな南に渡るはずですよ」

「少し寂しくなりますね」

「そうですね。ちなみに、川面の岩の上にいる鮮やかな青い鳥はわかりますか?」

「えっと、名前はわかりませんが、たぶん何度か見たことはあります」

「あれはカワセミのオスです。よく水鳥と言うと、彼らが取り上げられるので、記憶に残っているひとは多いと思います」

「ああ、テレビなどでもよく観かけるかもしれません」

「すぐ近くの木にとまっている喉の赤色がポイントの鳥はノゴマです」

ルッツは生き生きとした表情でナビゲートしてくれる。

「木の幹を見てください」

わたしは望遠鏡を覗きこむ。

「下向きにとまっている鳥は、ゴジュウカラです。彼らは、とても賢くて気が強い。樹皮に隠れている虫を上下に細かく動いて取り出しています。彼らの習性って面白いですよね」

「はい、とても愉快ですね。それに、フィーフィーフィーと、独特のさえずりをしていますよね?」

「そうですね。あっ、もう飛び立ってしまいました。彼らもすばしこい。野生の鳥たちは滅多に戦いません。常に周りに神経を張り巡らしていて、危険を察知した途端に飛び去ります」

ルッツは、他にも目に映る野鳥の特徴を丁寧に説明してくれた。

わたしは正直なところ、彼の知識にただ感心するばかりで、何をどう表現していいのかわからなかった。

「今まで気がつかなかったけれど、野鳥たちって色とりどりで個性豊か。本当にかわいいですね」

「ハンナさんに、野鳥の魅力を知ってもらえて、うれしいです」

「森も、木々も、鳥たちも、生命力に溢れていて、何だか圧倒されます」

わたしたちは、ひと通り散策を終えると、レジャーシートの場所に戻り、今朝、わたしがポットに淹れた珈琲を飲んだ。

ルッツは、サンドウィッチも食べていいか? 尋ねると、カゴの蓋を開けて、たまごサンドを頬張った。

今日は、まだ夏と秋の空気が混在している。雲ひとつない青空に、ポツリポツリと、急に雨が降り出した。

「今日は、あなたに会えて本当に良かった。昨日までのわたしは、晴れているのに、雨が降っているような気持ちでした」

「僕も、です。ずっと謝りたかった。どうして、あなたを傷つけるようなことを言ってしまったのか? 昨日まで自問自答を繰り返していました」

わたしたちは、同じように少しのわだかまりを抱えたまま、悶々と日々を過ごしていた。

今、雨が地上のすべてを濡らしてゆく。温かな9月の雨は、穏やかに降り注ぎ、草木から光の粒がこぼれ落ちる。上空に虹を架けながら。



秘密の告白


秋も深まり、神社の生け垣のキンモクセイが、オレンジ色の小さな花をつけている。その甘い香りは、境内にまでほのかに漂っていた。

今日は、神社で蚤の市が行われていて、見物客で賑わっている。

「ルッツさん、何か掘り出し物は見つかりそう?」

「僕は掛置時計を探してみたのだけれど、残念ながら見つからなかったよ。君は?」

「わたしは、ドライフラワー、アンティークの手鏡と猫のブローチ、それと古いボタンを選んでみた。どうやら50年代の東欧のモノらしくて。かわいいでしょ?」

「ハンナさん、どれも素敵だね」

わたしとルッツは、バードウォッチング以来、頻繁に連絡を取り合っていて、今では、かなり打ち解けて会話できるようになっていた。

「ちょうど公園の前に、新しくオープンしたジェラート屋さんがあるのだけれど。もしよかったら食べに行ってみない?」

「ぜひ!」

「ビスケットで、ジェラートをサンドしたビスコッティが、特に人気だと聞いたから」

「僕もジェラートは大好きだよ」

わたしたちは、15分ほどの道のりを、好きな音楽や映画のタイトルを言い合いながら、弾むように歩いた。

もしかして、わたしは青春時代をもう一度やり直している?

そんな錯覚をしてしまうほど、出会った頃の少年少女の気持ちに戻ったようだった。

大きな看板のあるジェラート店には、ニューオープンのポスターが壁一面に張り巡らされていて、本場で修業したオーナーのお店ということもあり、思っていた以上に盛況で、かなりの行列ができていた。

「僕はどうしようかな? さすがにオープンしたばかりだから混んでいるね」

わたしは、彼の顔がみるみるうちに曇って行くのを横目で見ながら、人混みや行列に並ぶことがあまり得意ではない、と話してくれたことを思い出した。

そもそも彼の国では、行列に並ぶという習慣がないそうだ。

「ルッツさん、公園のベンチで待っていてもらってもいいかな?」

ルッツは、わたしの気持ちを汲み取って、Okayと言うと、公園のベンチに黙って座った。

わたしは20分ほど並び、ピスタチオとバニラのビスコッティを手に持って、ルッツのいるベンチに向かった。

さきほどまでの行列とは打って変わって、ベンチの周りには、ジャスミンの白い花々が咲いているだけで、ルッツ以外誰もいなかった。

わたしたちは、黙々と食べ終わると、何もおかしいことはないのに、どちらからともなく、笑い出した。

「実は、今日、わたしはルッツさんに聞いてほしいことがあります」

「僕で良かったら何でも聞くよ。遠慮なく話してください」

わたしは、出来るだけ深刻にならないように、慎重に言葉を選びながら、明るいトーンで話そうとした。

「わたしには、あなたと同じ年齢の兄がいたの。でも1年ほど前に、睡眠薬の過剰摂取で亡くなりました」

「そうでしたか。とても残念です」

「兄の葬儀に参列してくださった同僚の男性から、少しだけ生前の兄の様子を伺うことができました」

「良かったですね」

「兄は、母が亡くなったことを、ずっと自分のせいだと思っていたようです。妹から母親を奪ってしまって、本当に申し訳なかったと、よく話していたと聞きました」

「当時アキさんは、不慮の事故で亡くなったと、父から聞いていました。もしかして違うのですか?」

ルッツは、神妙な面持ちで尋ねると、わたしの目をまっすぐに見つめた。

「交通事故でした。自宅の最寄り駅まで、深夜に兄を迎えに行った帰りに、対向車がカーブを曲がり切れず、中央線を越えてきて衝突したのです。対向車の運転手は酒気帯び運転でした」 

「アルコールが原因だったのですね」

「兄は軽傷ですみましたが、母は助かりませんでした」

「きっと、お兄さんもつらかったでしょうね。僕は、アキさんの葬儀でお会いしていなかったように思います」

「母の葬儀のとき、兄はまだ入院中でした」

「ああ、なるほど」

「実は、母が亡くなってから、兄とは疎遠になっていました。わたしと父は似た者同士で、とても仲は良かったのですが、兄だけは、どうしても父と相容れなかったようです」

「僕も同じようなものです。若い頃は父親とはあまり話しませんでした。男同士なんて、そんなものですよ」

ルッツは、わたしを慰めるように、努めて冷静に言った。

「兄の死後、わたしの自宅のある隣町で働いていたことがわかりました」

「もしかしたら、お兄さんなりに、ハンナさんを見守っていたのかもしれませんね」

「はい、近くにいてくれたのに。わたしは兄を見捨ててしまったのではないかと考えるようになりました。ずっと、わたしを母と兄が責め続けているような気がして」

「僕にもハンナさんの気持ち、少しは理解できます。僕も従兄をオーバードーズで亡くしました。きっと、他人には、理解しようにもできないことがあります。自分のことをもう責めたりしないでください」

わたしは誓って泣いたりしないと思っていた。けれども、気がついたら、とめどなく涙が溢れて止められなくなっていた。

「わたしがこの村に移住した最大の理由です。すべてから逃げたかった」

ルッツはわたしの震える肩を優しく抱きしめた。


今夜も天体観測を終えて、いつものように、出版社と国立天文台のマルメさん宛にデータを送る。

今、ソファで、ファルセットと遊ぶルッツがいることが、信じられなかった。 

彼は、わたしのことを心配して、自宅まで送ってくれたのだ。

ほんのひとときでも、誰かと一緒に夜を過ごすなんて。

今まで一度も考えたことのないシチュエーションに、背中のあたりがモゾモゾとこそばゆい気持ちになって、何だか落ち着かなかった。


Title: 新月の夜に浮かびあがる淡い星々

北極星を周回するカシオペア

ケフェウスが上から見守る

ー窓から星座を観察しながら挿絵を描く

天高くペガススが飛び

アンドロメダに寄り添う

ー夜空の写真を見ながら挿絵を描く

南にひとつ輝くフォーマルアウト

北東の空にペルセウスが昇り

アルゴルが不気味に輝く

ー秋の四辺形の挿絵を描く

カプリコーン、アクエリアス、ピスケス

ーくじら座の挿絵を描く

今宵の星降る景色は以上です――送信



モンスターとミューズ


11月初旬、今年一番の冷え込みで、庭の草花や樹木にも、うっすらと霜がおりた。

もうじき初雪が降り、本格的な冬の到来を告げる。

わたしの庭には、初夏に白くて可憐な花を咲かせていたナナカマド、ナンテンやノイバラもたくさんの赤い実をつけて、山から餌を求めて降りてくる鳥たちの飛来を歓迎しているようだった。

昨日、わたしはエリナさんと一緒に、庭のリンゴをカゴいっぱいに収穫した。もちろん、小鳥たちの取り分は残したつもりだ。

つい先日、庭でばったりムラン一家とお会いしたときに、エリナさんから初雪が降る前に、リンゴの収穫をしようと持ち掛けられたのだ。

エリナさんは、ふたつのカゴから、リンゴをひとつひとつ取り出して、今年の豊作にご満悦な様子で、急に何か思いついたような顔をした。

「もしよかったら、せっかくの機会だし、クラークさんの奥様も誘って、3人でジャムとコンポート作りなんてどう? ここで明日?」

「ここで? 明日ですか?」

わたしは突然の提案にしばし考える。

「うーん。それは名案かもしれないですね。ざっと50個くらいありますから、わたしたちだけじゃ食べきれないですし。ぜひ誘ってみましょう!」

昨日のエリナさんの思いつきのような提案は、無事に実現することになった。


いつもならば、ステンレス製の大きな桶は、バードバスとして庭に置いているのだが、昨夜からリビングに鎮座していて、赤い実が水にプカプカと浮かんでいた。

面白いことに、好奇心旺盛で用心深いフェリセットは、そぉーっと近づくと、リンゴの実を前足でチョイチョイと触ったり、匂いを嗅いだりして、怪しいモノではないか? 何度も確認している。

一晩中、リンゴの甘酸っぱい淡い香りが、部屋中にほんのりと漂っているので、フェリセットは「お前、何者だ?」と言っているようにも思えた。


昨夜は、国立天文台のマルメさんが急用でお休みされていて、天体観察日誌は保留となっていた。その時間も活用して、わたしは、一晩中、エッセイの執筆に明け暮れた。

そのせいで、今朝はかなりの寝不足で、まったく頭が回らない。

ぼぉーっとしたまま、朝カップ一杯の珈琲をすすっていると、ピンポーンと玄関チャイムが鳴った。

「おはよう! ハンナ起きている? 今日は巣箱を持ってきたよ」

窓から覗き見ると、大きな袋を抱えたルッツが玄関前に立っていて、わたしと窓ガラス越しに目が合うと、うれしそうに微笑んだ。

わたしは、そんな彼のまなざしが、少年のように見えて、不思議でならなかった。

「おはよう。わざわざありがとう。きっと鳥たちもよろこぶね」

この時期は、山からたくさんの野鳥が餌場を求めて村に舞い降りてくる。

ほとんどの村民は、自宅の庭を鳥たちに開放していて、彼らの居場所を試行錯誤しながらつくっていた。

それは、わたしたち人間も自然の恩恵を受けて生きているということを、みんなが知っているからだ。

わたしとルッツは、梯子を使って庭の木々のなるべく高いところに、巣箱やエサ台を設置すると、細かく砕いたナッツ類を庭中にまいて、8等分にカットしたリンゴやオレンジを小枝にさした。

新たに水浴び場もつくり彼らを迎えるための準備をした。

「これで、野鳥や小鳥たちが庭にやって来てくれたら本望だよね。僕は、君の庭の写真も撮りたいな」

「もしかしたら、野鳥たちの別の表情が撮れるかもしれないよね? あなたのブログを見ることが楽しみになってきた」

最近、ルッツはブログを始めた。

来春、彼の友人のカフェにあるイベントスペースで個展を開く予定なので、そのプロジェクトの一環として頼まれたようだ。

わたしは、どちらかと言うと、SNSにもブログにも特に興味はなく、今のところ表現者というよりは傍観者だった。

「ありがとう。読者の数も日に日に増えてきているからうれしいよ。最初は僕もあんまり乗る気じゃなかったけれど、今では少しずつ楽しくなってきている」

「ルッツが楽しめているなら、わたしもうれしいけれど。正直言うとネットの世界は苦手。とても便利だけれど、使い方次第でどうにでもなるでしょ? ときどきモンスターみたいで怖くなる。そういえば...…」

いつも忘れていたことを急に思い出す。忘れたままでいられたら、どんなにいいだろうってことまで。わたしの悪い癖だと思う。

今頃になって、ずっと封印していた子どもの頃の苦い記憶が沸々と蘇ってきた。

「子どものとき、クラスメイトがイジメの標的にされたことがあって。彼女のことを気が狂っているって、悪意のある誰かがSNSに書き込んだことが、きっかけだった」

「僕の周りでもあった。急にクラスのほぼ全員から無視される子がいて。何が起こったんだろうと思っていたら、やっぱりSNSでの誹謗中傷が原因だった。誰も声をあげようとしなかったし、みんな見て見ぬふりだった」

「どこでもイジメは起きる。結局、彼女は転校してしまった。わたしも心が痛んだけれど、助けてあげられなかった。この場合、子どもだったからって言い訳は通用しないよね?」

「僕も、君と同じ言い訳をしたと思う」

「わたしは、今では依存しすぎないように、ほどほどな付き合いにしようって決めているけれど、すっかり忘れていた」

「きっと誰もが一度はつらい経験をしているよね。子どもだからとか大人だからなんて関係ない。誹謗中傷する側も、被害者も、傍観者も、みんなが傷つく。どこにでも伝聞を根拠なく信じるひとや、面白がるひとは一定数いるからね」

「うん、残念だけれど」

「最近、自己表現の場としては、あまり魅力を感じなくなって来ている。良いニュースよりもネガティブなニュースや意見を散見することも増えた。解釈も人それぞれ。真意が伝わらないときもある」

ルッツはため息をつきながら話を続けた。

「きっと、これに代わる革新的なコミュニケーションツールが出ない限り、一定の需要はあると思う」

ルッツは他人の意見に耳を傾けながらも、肯定も否定もせずに自分の考えや気持ちを的確に伝えることのできるひとだ。

みんなが彼のように他者を認め合えたら? 例え不器用でも利己的にならずに思いやりを持てたら?

きっと、どこの世界にいても、今起きている様々な問題を平和的に解決できるのではないだろうかと思う。

「それに、まだまだ僕たちクリエーターにとっては、まさに女神の頭脳みたい。クリックひとつで簡単に情報や知識が手に入るのだから」

「ちょっと知りたいっていう欲求をすぐに叶えてくれる。やっぱりモンスターとミューズは紙一重って言えるかも。わたしたちの考え方ひとつで、戦争も起きるし、平和も維持できる」

わたしが時計をチラチラ見ていると、ルッツは時間を気にしていることに気付いて、フェリセットにお別れの挨拶をして身支度を始めた。

フェリセットは、もっとルッツにかまってほしかったようで、彼のふくらはぎに何度もコツンと頭をぶつけたり、額をこすりつけたりしている。

ルッツも、彼女を撫でたり、抱きしめたりと、ご機嫌を取りながら、わたしとフェリセットに寂し気に手を振った。

「じゃあ、またね!」

わたしは、流石に、ひとりと一匹に申し訳ない気持ちになった。ごめんね、もうじきうちにも、素敵なミューズたちがやって来るの。



ミューズたち


ルッツを見送った後、わたしは慌ててバスルームへ行き顔を洗う。

しっかり歯みがきをして、化粧水とクリームでスキンケアも済ませ、軽くメイクをすると、恥ずかしくない程度に、ヘアスタイルを整えた。

ほどなくして、ピンポーン、ピンポーンと2回続けて玄関チャイムが鳴ると、元気の良い笑い声が聞こえてきた。

ドアを開けると、エリナさんとクラーク夫人が仲良く並んで立っていて、ふたりは、出迎えたフェリセットの尻尾を軽く撫でた。

「ようこそ。今日は久しぶりにみんなが揃いましたね」

わたしとエリナさんは、同じ敷地内に住んでいるため、しょっちゅう顔を合わせているのだが、クラーク夫人と会うのは、夏以来久しぶりだった。

「何だか、ハンナさんにも、ご迷惑おかけしちゃったみたいで。本当にごめんなさい。わたしの体調も安定してきたので、もう安心してね」

クラーク夫人は、以前よりもふっくらとした頬に両手をあてて、とても幸せそうで、穏やかな表情をしていた。

「本当にお元気になられて良かった」

「ご心配おかけしました。またみんなでスーパーマーケットへ行きましょうね」

「ぜひ。楽しみにしています!」

エリナさんも安堵した様子で頷いた。

「今日も寒かったですよね。何か温かい飲みものでもいかがですか?」

エリナさんは生粋の珈琲ラヴァ―なので言わずもがなブラックを。クラーク夫人は、テーブルに置いてあった麦茶の箱を控えめに指差した。

「1年中常備しているので、お気になさらず。冬の温かい麦茶もおいしいですよね?」

「ええ。ハンナさん、ありがとう!」

クラーク夫人は、ポットを受け取ると、湯飲みに少しづつ麦茶を淹れて、匂いを嗅いだ。

「これは大丈夫そうね。ごめんなさい」

そう言うと優しい笑顔で麦茶に口をつけた。

「実は、一時的に、食べ物の匂いに敏感になってしまって。かなり食事の好みも変わりました。最近、ようやくペンションのカフェにも立てるようになったので、また遊びに来てくださいね」

「はい、本当に良かった。しばらくお見かけしなかったから、とても心配していました。またお伺いしますね」

エリナさんは、フェリセットと遊びながら、ふたりのやりとりを静かに見守っているようだった。

彼女は、ひと通り落ち着いた雰囲気を見計らって、リンゴの入った桶を持ち上げると、キッチンテーブルの上に移動させた。

そして、クラーク夫人と一緒に清潔な布でひとつひとつ丁寧に磨き始めた。

わたしは、大小のホーロー鍋をコンロにかけると、コンポート用は皮の付いたまま大きな鍋へ、ジャム用は皮をナイフで剥いて細かく切り分けながら、小さな鍋へ入れて、弱火で煮詰めた。

わたしとエリナさんは、それぞれの鍋に砂糖を少量ずつ加えながら、木ベラでリンゴをゆっくりとかき混ぜる。

その間、クラーク夫人は、それぞれが持参した容器をテーブルに並べて、自前のスコーンとパンをお皿に用意しながら待っていてくれた。

いつもおしゃべりなエリナさんは、沈黙に耐えかねて、やんわりと口を開いた。

「わたしの生まれた国では、誰の心の中にも3人のシモーヌがいてね。彼らは、みんなの憧れのミューズだし、特に女性にとっては、人生の指針のようなひとたち。何かにつまずいたときは、彼らを思い出せって言われてるくらい」

「3人のシモーヌ? わたしは初めて聞きました。クラークさんはご存じですか?」

「はい。わたしは高校生のとき、哲学のクラスで、彼女たちの存在を知りました。それから伝記やエッセイを読み漁って。わたしも、彼女たちの生き方に、感銘を受けたひとりです」

わたしは、二人の会話を聞きながら、何も知らない自分がちょっぴり恥ずかしくなった。

「えっと、ハンナに補足すると、政治家で弁護士のシモーヌと哲学者で作家のシモーヌ、そして俳優のシモーヌね」

エリナさんは、わたしの顔を見つめながら、まるで自分にも言い聞かせるように念を押した。その言動を見ていたクラーク夫人が、エリナさんに語りかける。

「わたしはエリナさんがうらやましい。わたしの生まれた国では、いつの時代も男性が英雄でした。彼らは、強靭な肉体と精神を持つ勇敢な戦士で、開拓者だった」

クラーク夫人は、ふぅーと息を吐くと話を続けた。

「今でもたくさんの史実が残っていますし、もちろん、わたしも彼らを尊敬しています。でも、ときどき度を越したマッチョイズムに、うんざりしてしまうの。ハンナさんは、どう思う?」

「たぶん、わたしの国も保守的なので、現状は同じかもしれませんね」

「やはり、そうなのね」

「わたしは、性別に対する得体の知れない重圧に、いつも気持ちが押しつぶされそうになります。わたしと同じように、生きづらさを抱えているひとたちが、世界中にいて、今もSNSで発信してくれています」

「心強いね。声をあげることって、とても大切。自分は自分の人生を生きているって思うもの」

クラーク夫人はエリナさんの言葉に同調するようにまた口を開いた。

「そうね、生きているって本来は能動的でシンプルなこと。きっとみんな本当の意味で生きている実感が沸かないのは、そのせいかもしれない」

「誰かが与えてくれた環境の中で、遠慮ばかりしていては、ただ生かされているだけになっちゃうからね」

「本当に。わたしは、この国に住み始めてから、違和感がありました」

「それは、どうしてですか?」と、わたしは訊いた。

「はい。それは、若いひとたちには、自分の人生を生きてほしい。他人の視線を怖がらずに、声を上げてほしいと思ったからです」

いつも控えめなクラーク夫人とは思えなかった。

「その声は、一見すると非力のように思えても、実は大きな意味を持ちます。世界の誰かに必ず届いていると伝えたいのです」

クラーク夫人は、誰かに語りかけるように、優しくも力強いまなざしで語った。

「あっ、クラークさんのさっきの話だけれど。開拓時代にジーンズを履いた勇敢な女の子がいたってことも覚えておいてね」

エリナさんはそう付け加えると、クラーク夫人と笑顔で頷き合った。

いつの間にかパラパラと雨が降り出して、窓の外は薄暗い雲に覆われていた。

みんなが雨に気付いた頃には、みぞれから雪に変わり、部屋中に寒さが増してゆくのを感じた。

わたしが暖炉に火をつけると「初雪ね」と、クラーク夫人は穏やかな口調で呟いた。

エリナさんは鼻歌を口ずさみながら、作り立てのジャムとコンポートをお皿にのせると、今度は冷蔵庫から生クリームのホイップを取り出して、みんなのお皿に無造作にのせた。

わたしたちは、それを、クラークさんお手製のスコーンとパンにつけて食べた。

残りのジャムは冷まして、それぞれの瓶に詰めると、うれしそうに、雪の中をふたりは帰って行った。


#創作大賞2022

初めまして。見て読んで下さって、本当にありがとうございます。これからも楽しみにしていて下さい♡