見出し画像

4 seasons ― lost village 第3章

星降る夏のはじまり 


春の嵐の季節が過ぎ去り、また本格的な夏の観光シーズンが始まろうとしていた。

わたしたち村民にとって、観光客を迎え入れることは、有り難くもあり、不自由でもある。

これから週末になると、どこのパーキングも観光バスやらキャンピングカーのような大型車でいっぱいになり、そこへライダーも合流して、村のすべての駐車場は混沌とした状態になる。

遠い昔、馬車道として機能していた道路は、道幅も狭く、一方通行も多い為、かなりの渋滞が発生する。

そのため、移住が決まった時点で、麓の消防署の指導により、防災訓練を受けることになっていた。

特に、小さな村にとって、夏の観光シーズンの火災は命取りになる。

いつにも増して、火の始末を徹底することはもちろんのこと、消火器の取り扱いから、初期の救命救急、避難経路に至るまで、みっちり丸2日間×4時間ずつの講習を受ける。

こうして、消防署長からの終了認定書をもらい、役場で念書にサインをして、晴れて村民になれるのだ。

わたしが、そこまでして、移住を決めた理由のひとつに、真夏でも星空の美しいことから、有名な天体観測の名所だったということもある。

この村には「春の嵐」という異名の他に、「星降る村」という素敵なネーミングもあるのだ。

もうじき、世界中から天文マニアがやってきて、まだ名もなき星探しが始まる。

昨今では、富裕層の間で宇宙旅行が当たり前となり、世界的な天文ブームが巻き起こっていた。

夏になると、わたしの仕事は、余裕のあるスケジュールに変更される。その理由は、北半球が夏に入ると、ほとんどの国で長いバカンスが始まるからだ。

このシーズンは、世界のあちらこちらで、見知らぬ誰かが思いを込めて名付けた星々が、日々ネット上で更新されて、その膨大な数に悩まされる。

また、今わたしが住んでいる、推定築100年の古民家も、新しいかたちの再生物件として、脚光を浴びているため、多くの観光客が記念撮影にやってきて、少し落ち着かない日常になる。

わたしが、初めてこの家と出会ったのは、5年前の春。たまたま道に迷ったことで、辿り着いた場所だった。

その頃のわたしは、駆け出しのフリーライターで、国内のリゾート地を旅しながら、旅行雑誌のモノクロページに『星空をめぐる旅』というタイトルで紀行を連載していた。

それから、数か月が経過したのち、星降る村の取材で再び訪れることになったのだが、あまりの変貌ぶりに、心の中で、感嘆の声をあげたことをよく覚えている。

以前は、平屋に縁側と庭のある寂れた廃墟だったのに、いつの間にかリゾート開発をしたデベロッパーの手により、北欧風タイニーハウスとして生まれ変わっていたのだ。

まず目を惹くのは、長方形やひし形、楕円形のいびつな形をしたステンドグラスが特徴的なコンクリート造りの壁面。キノコのような丸い茶色の屋根には、煙突がついている。

室内は、洗練された造りになっていて、小さな暖炉も完備されていた。

手入れの良く行き届いた庭には、左から順序良く季節ごとの草花や木々が植えられている。

大家のムランさんが、日の入りに合わせて、また春から絶え間なく花が咲くように、丹精込めてつくったそうだ。

この村は、施設や店舗、家屋だけでなく、信号機、標識、郵便ポストや消火器に至るまで、すべてがアートになっていて、その中には世界的有名デザイナーの作品もある。

観光客には、アート好きも多く、村での旅行中の出来事や景観を個人のSNSやブログなどで、紹介してくれるため、さらにネットユーザーの間で話題となり、観光客が後を絶たない。

ここは、自然と芸術の相反する要素がうまく融合していて、誰もが何かしらの感動をお土産に持ち帰ってゆく、唯一無二の場所だと心底思う。



サマーコープス1


昨日は、夏にしては珍しく悪天候の一日だった。嵐の一夜が明け、太陽が照りつける朝がやってきた。いつも通りの日常の始まりだ。

明日から、国立天文台は改築工事のため、1ヶ月の臨時休暇に入る。わたしも、その期間は仕事らしい仕事がないため、何も予定を入れない余暇を過ごすことに決めていた。

いつもは、職業柄どうしても夜型生活になってしまうので、休暇中は早起きをして、丁寧に珈琲を淹れることから始めようと思っている。

朝カップ一杯の珈琲を飲みながら、おもむろにカレンダーに目をやると、今日の日付を囲うように大きな赤丸が付いていた。

あれ? 今日は買い出しの日?

今回、うっかり忘れていたが、毎週土 or 日のどちらかは、ペンション経営者のクラーク夫妻のワゴン車で、町の大型スーパーマーケットへ、食料品や日用品の買い出しにゆくことになっていた。

毎回、ムラン一家の奥様のエリナさんと、彼女の1歳になる息子も同行していた。

エリナさんは、子どもの頃から外国で暮らしていたせいか、いつ会っても明るくラテン系のノリで、とてつもなく愉快なひとだ。

約1時間の道中は、いつも彼女が中心となっていた。

わたしたちは、たわいもない世間話に花を咲かせたり、政治や経済のちょっとした話題を語り合ったり、麓のレストランでランチをしたりと、賑やかで貴重な時間を過ごしていた。

彼らは、いつも11時過ぎ頃、我が家へ来てくれることになっていた。

現在、壁掛け時計の針は9:41を指していて、まだ迎えの車が到着するまでには、充分な余裕があった。

わたしは、今朝からずっと気になっていた庭の掃除をしようと思い立った。

つばの広いラフィアハットを目深に被り、大きめの黒のサングラス、長袖の白のビッグシャツに、園芸用のグローブ、ジーンズとスニーカーで庭に出た。

見上げた晴天の空には、積雲がポコポコと可愛らしく連なっているのとは真逆に、見下ろした庭のあちらこちらに、昨夜の嵐で飛ばされてきた木片や紙屑などのゴミが散乱していた。

わたしは、フゥーと何度もため息をつきながら、夢中で片付けをした。

そのとき、ポストがカタンと開いたので、音のするほうに目をやると、スラリと痩せた男性が立っていて、わたしに軽く会釈をした。

今まで一度も見かけたことのない人物は、首から望遠レンズの付いた立派な一眼レフを下げていた。きっと観光客なのだろう。

わたしも軽く会釈を返すと、彼もまた会釈をして、何も言わずに立ち去って行った。

以前にも、彼をどこかで見かけたような気がしたのだけれど、特に気に留めることなく、ただひたすら厄介な掃除に没頭した。

その日の午後、いつものように買い出しから戻り、自宅のポストを覗くと、郵便物以外に、少しクシャクシャになった二つ折りの薄いブルーの紙が入っていることに気づいた。

何か書いてある?

わたしは少し戸惑いながらメモを開いてみる。


Hello! I am Lutz.
Are you Hanna?
Do you remember me?
I know your mother, Aki. 
She was my father’s special friend.
BTW Do you know?
We first make our habits, then our habits make us.
Hakuba102 +000(222)111


メモには英語で、わたしの10年前に亡くなった母(アキ)の親友の息子(ルッツ)で、僕のことを覚えている? という問いかけと、私の父が敬愛する詩人の格言が添えられていた。

公務員で詩人の父らしいセレクトで、彼が人生教訓として、いつも心に持っている言葉だ。本来はごく限られた人間しか知らないはずだった。

文末には泊まっているペンションの名前と連絡先が書かれていた。

わたしは、好奇心旺盛な子供のようにワクワクする反面、もうひとりの大人のわたしは、連絡をするべきかどうかを冷静に考え始めていた。

今朝、一瞬だけ見た彼の姿を思い起こす。

ほんの数分だったので、彼の雰囲気は覚えていても、顔の造形や表情までは見ていなかった。

わたしは少し後悔した。しかも彼といつどこで出会ったのかさえも思い出せない。

あっという間に日が暮れてゆく。

赤く広がる西陽が部屋の窓から差し込んで、陽炎のようにユラユラとわたしの影を壁に映し、鼓動を部屋中に響かせる。頬は、太陽の光を受けて赤く上気してゆくように思えた。

ーこんな煌々とした波打つ雲の夕空なのだから、きっと嵐にはならないだろう?

この村外れの高台の一軒家は、ときどき美しく恐ろしいくらいに、上空での様子を感じさせる。

今日のように、窓の外に目をやることが憚られるほど、動揺させられたことはなかった。


まるで、午後の出来事は無かったかのように、また静かな夜がやってきた。

いつものように庭へ出て天体観測をする。

今夜は、臨時休暇前の最後の天体観察日誌の送信日だ。わたしの心は少しだけ弾む。


Title: 今宵は美しい天の川が流れる七夕の夜

南の地平線に流れ落ちる無数の星々

ー窓から星座を観察しながら挿絵を描く

土星と木星が仲良く夜空を照らす

ー夜空の写真を見ながら挿絵を描く

南の空に赤く輝くアンタレス

新月の夜デネブが懸け橋となり

ベガとアルタイルが出会う

ー夏の大三角形の挿絵を描く

ペルセウス座流星群

今宵の星降る景色は以上です――送信



サマーバケーション


夏の臨時休暇も終わりに差し掛かったある日の午後。

国立天文台館長のシオタさんが家族と一緒に村へやってきた。

最寄りのバス停まで迎えにゆくと、ちょうど大きなボストンバックを抱えたシオタさんが下りてきた。久しぶりに会うシオタさんは、少し痩せて日焼けしたように思う。

「こんにちは! お久しぶりだね」

「はい、ご無沙汰しておりました。シオタさんも相変わらずお元気そうですね」

「うん、僕は元気だけが取り柄だからね。家族揃って旅行するのは2年ぶりだよ」

彼は、隣にいた奥様と目を合わせると、とてもうれしそうに微笑んだ。

シオタさんは、奥様と小学生のお嬢さんの三人家族で、奥様とは大学の天文サークルで出会い、意気投合して、大恋愛の末に結婚したそうだ。

わたしは、シオタさんに会うたびに、何度も同じ馴初めを聞かされていて、多少なりとも受け流す術を身に着けていた。

「いつもシオタがごめんなさい。大恋愛なんて大げさよね。わたしの父が結婚に乗る気じゃなかっただけなの。だって彼はまだ院生だったもの」

シオタ夫人は、冷静かつ恥ずかしそうに否定すると、シオタさんを少しだけ怒ったように睨んだ。

わたしは、愛妻家で家族思いのシオタさんが少しだけ気の毒になった。

もしかしたら、ずっとシングルを貫きそうなわたしを見かねて、結婚は良いものだよと、遠回しに諭してくれていたのかもしれない。

わたしたちは、お互いの近況報告を交えながら、目的地までゆっくりと歩みを進める。

今日、わたしは知り合いのペンションへ、シオタさん家族を案内することにしていた。

そこは、クラーク夫妻の経営する新築のログハウスで、カフェスペースにはミッドセンチュリーの家具、北欧デザインのハンモック、大きな暖炉もあり、フィンランド式サウナコタが併設された人気のホテルだ。

また、クラーク夫妻の作る北欧風の料理も評判が良く、ミートボールプレートとサーモンスーププレートが特に人気のメニューで、週末には行列ができるほどだった。

すでに、シオタさんとクラーク夫妻は、わたしがこの村に引っ越してきた初日の集会所で顔見知りになっていた。

「はるばる遠方までようこそ。みなさんにお会いできて光栄です」

クラークさんが開口一番歓迎の言葉を口にする。

「初めまして。シオタの妻です。本当に素晴らしいですね。家族みんなとても楽しみにしていたの。噂に聞いていた以上だわ」

シオタさんの奥様はお嬢さんと満面の笑みで店内を見渡した。

「どうぞみなさん、こちらへお座りください」

クラークさんは、カフェスペースの湖の見える特等席に、みんなを案内してくれた。

「本日は、このカフェ自慢の北欧風ランチコースでおもてなしさせてください。事前に皆さんの食べられないものをお伺いしておりましたが、あれからお変わりはないでしょうか?」

クラークさんは、ひと通り確認をすると、奥様に接客を引き継いで、厨房へ戻って行った。

クラークさんの奥様は、心地よい雰囲気を纏って現れると、ひとりひとりに丁寧な挨拶をした。

特に、シオタさんのお嬢さんのことを気にかけている様子で、優しい笑顔で何度も話しかけていた。

しかし、彼女は人見知りでとても大人しく、わたしたちが何を話しかけても、最後まで反応することはなかった。

ときおり、母親の手をギュッと握りしめて、どこへ行くにも、ぴったりと、くっついて歩く姿が印象的だった。

実は、クラーク夫妻には子どもがいない。シオタ夫妻も長い不妊治療の末に、ようやく子どもを授かった経緯がある。

シオタさんも奥様も、すでに40歳を過ぎてからの出産と育児を経験している。

きっとクラーク夫妻にも。そんな思いがわたしの脳裏をよぎった。

他者が触れてはならない問題だとわかっていても、優しくて素敵なご夫妻の元に、いつか愛らしい天使が舞い降りてきてほしいと願わずにはいられなかった。



夏の日にゆらめくもの


わたしの臨時休暇も終わりに近づいた週末。

その日は朝から曇天で、ときおりパラパラと雨が降り続く陰鬱な一日だった。わたしは、低気圧の影響もあり、かなり憂鬱な気分になっていた。

そこへ輪をかけるように、クラーク夫人の体調不良で、恒例のスーパーマーケットへの買い出しが、急遽キャンセルになった。

早朝、クラークさんからわたしの携帯電話に着信があり、奥様の体調不良のことや繁忙期であることをお聞きした。

わたしは、「どうか気にされずに。ご自愛ください」と伝えたのだが、謙虚で義理堅いクラークさんは、何も悪くないのに、何度も申し訳なさそうに謝った。それは、こちらが恐縮してしまうほどだった。

クラークさんからの電話を終えた後、どうにか気持ちを切り替えて、こないだのメモの男性に連絡をしてみようと思い立った。

彼はルッツ、確かそんな名前だった。

メモを開き電話を鳴らしてみる。

わたしは、呼び出し音が鳴っている間、彼とどこで会ったのか? わたしの父の座右の銘をなぜ知っているのか? 彼に尋ねてみようと考えていた。

10回目のコール音で留守番電話につながったので、少し躊躇したがメッセージを残してみることにした。

「おはようございます。朝早くからすみません。わたしはハンナと申します。ご連絡が遅くなりました。もしよろしければお電話ください」

なぜだか少し緊張して、声が上ずっている自分が気恥しくなった。

彼からの連絡を待っている間、何かをしていないと気持ちが落ち着かない。

春夏用のリネン類をまとめて洗濯機に放りこみ、庭の雑草を抜きながら鼻歌を唄い、普段はしなくてもいいような靴の手入れをする。

フェリセットは、わたしの様子をソファから不思議そうに眺めながら、窓の外を野鳥が飛んでいる姿を見つけては、カッカッカッとクラッキングをする。

彼女もまた落ち着かない様子で、急にソファから飛び降りると、わたしの足に背伸びをしながら、ジーンズにガリガリと爪を立てた。

これは、猫が人間に対して、何かしら要求のあるときに、よくするしぐさだと聞いたことがある。

わたしは、自分のことばかりで、余裕がなかったことを反省する。

そして、フェリセットを気にかけてあげられず、一度も声を掛けていなかったことに気付く。

「フェリセット、ごめんね」

こちらの言葉を理解したかのように、フェリセットは、わたしの足元にすり寄り、頭をコツンとぶつけて、ニャッニャッと挨拶をすると、わたしの顔をまじまじと見上げた。

フェリセットは、黒く美しい毛並みの持ち主で、とてもおしゃべりな女の子だ。

わたしは、床に腰を下ろして、フェリセットの頭から尻尾までをやさしく撫でた。彼女は、うれしそうにゴロゴロと喉を鳴らして、ゴロンとおなかを見せて甘えてくれる。

「いつもありがとう。大好きよ」

初めての猫との暮らしは、順調そのもので、今まで、どうして猫を飼わなかったのかと思うほどだ。

特に、フェリセットに限ったことではないのかもしれないが、彼女は、甘えと不干渉のバランスを熟知しているようだった。

著名な作家やアーティストに、無類の猫好きが多いことは、周知の事実だけれど、猫の何が彼らを魅了したのか、少しだけわかったような気がする。

夕方になると雨はやみ、雨雲と夕焼けのピンクが混ざり合って、幻想的な紫色の空模様をつくり出している。

どこからともなく、蝉のジリジリと鳴く声と、秋の虫の鳴く声が聴こえ、まるで夏の終わりを告げているようだった。もうじき秋になる。夏の間に彼ともう一度会いたい。


突然電話が鳴り、ハッとする。それは見覚えのあるダイアルからの着信だった。

「こんにちは、ハンナです」

「こんにちは、ルッツです。ずっとあなたからの連絡を待っていました。今、少しだけ話せますか?」

「はい。大丈夫です!」

わたしが前向きな返事をすると、彼は少し安堵したように、小さなため息をついた。

それから、ルッツは唐突に、自分の父親のことを語り始めた。

彼の話によると、現在ルッツの父親は、認知症で介護施設に入居している。

彼が面会にゆくたびに、わたしの母(アキ)との思い出を何度も繰り返し話しているようで、かなり戸惑っているとのことだった。

わたしの母(アキ)が大学生だった頃。

ルッツの父と出会い、友人からほどなくして恋人関係になった。真剣に交際していた二人は、結婚を誓い合ったが、紆余曲折あって離ればなれになってしまったという内容だ。

わたしは、初めて知る事実に驚き、とてもではないが言葉にならなかった。

「突然のことで本当にごめんなさい。僕の声、ちゃんと聞こえていますか?」

「ちょっと驚いてしまって。すみません。もしご迷惑でなければ、一度お会いしてきちんとお話しませんか?」

「もちろん、大丈夫ですよ」

「では、こちらで待ち合わせの場所と日時を決めて、またご連絡します」

彼は、わたしの申し出に同意してくれたので、彼の仕事終わりに会う約束をした。



サマーコープス2


わたしは、本来とても用心深い性格で、人見知りなところがある。

もう約束の日まで数日しかないと言うのに、未だにルッツと二人きりで会うことに躊躇していた。

当日は、緊張することが確定していたので、クラークさんのカフェで、落ち合う約束をしていたのだが、わたしは、彼のことをあまり信用していなかった。

ただ、彼が繊細で優しい人柄だということだけは、言葉の端々から伝わってきていたので、直接会って話してみたいと思ったのだ。

彼は本当に来るのだろうか? そんな不安が頭をよぎる。


いよいよルッツと会う約束をした日がやってきた。それは、8月の終わりの残暑の厳しい午後だった。

前夜から、緊張のあまり眠れなかったこともあり、約束の時間よりも1時間も早く、クラーク夫妻のペンションに到着した。

クラークさんに、今回の経緯と事情を説明すると、彼は協力体制で、カフェの厨房から見える席を案内してくれた。

わたしは、席に着くと、ひとまずカモミールティーをオーダーして、波打つ気持ちを落ち着けようと思った。

30分後、時間ぴったりにクラークさんの案内で、わたしのいる席にルッツが現れた。

彼は、あの日に見た青年のままで、スラリと痩せていて、首から一眼レフのカメラを下げていた。

初めて彼の顔を近くで見ると、透き通るような白い肌に、黒緑色の美しい瞳をしていて、わたしよりも、ずっと若いように見えた。

わたしは立ち上がって挨拶をする。

「ルッツさん、今日はお時間を作ってくださって、本当にありがとうございます」

「こちらこそ。ハンナさんは問題なかったでしょうか?」

「いいえ、わたしは緊張のあまり眠れない夜が続いていました」

「それは大変申し訳ありません」

彼は、心からスミマセンという表情をして、深々と頭を下げた。

ふたりの間に沈黙が流れる。

クラークさんは、気まずい雰囲気を察しったかのように、厨房から出てくると、少し慌てながらオーダーの案内をした。

とりあえず、わたしたちは着席して、わたしはアイス珈琲を頼み、ルッツは温かいミルクティーをオーダーした。

「今日は、すぐそこの湖に、鳥たちの写真を撮りに行っていました。僕は、鳥類を専門に撮影しているフリーランスのカメラマンで、この村には、年に数回来ています」

ルッツは、大きなカメラバッグから、今まで撮影した写真の収まったアルバムを取り出して、わたしに手渡した。

「すべてこの村で撮ったものです。今度、友だちのカフェのイベントスペースで、個展を開く予定になっています。この村は、都会の人たちからも、注目度が高いので。もしよろしければ見てください」

わたしは表紙の写真を見つめる。そこには、わたしの好きな冬の湖に降り立つ水鳥たちの躍動感あふれる姿が写っていて、ページをめくるたびに心が震えた。

「とても素敵な写真ですね。水鳥たちの生き生きとした姿がよく写し出されていて、とても感動しました」

「そう言ってもらえるとうれしいです」

ルッツは照れくさそうに微笑んだ。

「ルッツさん、早速で申し訳ありません。この間のお話の続きを聞きたいのですが。その前にいくつか質問してもいいですか?」

彼はわたしの目をまっすぐ見て頷いた。

「わたしは、ルッツさんといつお会いしたのか? どうしても思い出せないのです」

彼は納得したような表情をして、ゆっくりと話し始めた。

「僕たちが初めて出会ったのは10年前です。アキさんの告別式に、父と参列させていただきました。当時の僕は17歳で、何もわからないまま、父に連れてこられた少年といった感じでしょうか?」

「そうでしたか。母の告別式に参列して下さっていたのですね。その節はありがとうございました」

「僕は口数が少なくて。たぶん、あまり印象に残らないタイプだと思うのですが。ここまでで何か思い出せそうですか?」

わたしは、10年前の15歳だった自分の記憶を手繰り寄せてみた。

そう、あの日は今日のような夏休みの終わりで、とても蒸し暑い日曜日だった。

わたしたち家族は、予期せぬ母の落命に、実感が湧かないまま彼女を見送った。

いくら目を閉じて思い出そうとしても、わたしの記憶は、所々抜け落ちてしまって思い出せない。

その上を更に悲しみが蓋をして、こじ開けることを拒否しているようだった。

わたしの散らばった記憶の断片。それをどうにか拾い集めて何度も繋げようと試みるも、苦悩が広がってゆく。

ルッツは、わたしの苦悶する表情を見ると「無理されないでください」とわたしの手に優しく自分の手を重ねた。

わたしは、突然のことにドキドキして、思わず伏せていた顔を上げると、彼の黒緑色の印象的な瞳を見つめた。見覚えのある曇りのない美しい瞳。

わたしの中で、ひとつの光景が、一瞬にして蘇ってくることを感じていた。

「もしかして、あなたはカラスの亡骸を模写していたひと?」

「はい。それは僕です」

「あのとき急に姿がみえなくなって、みんながあなたのことを探しました。たぶん、わたしが最初にみつけたの。あなたは、雑木林の大きな石に座って、カラスの亡骸をスケッチブックに描いていましたよね?」

彼は、静かに頷いた。

「わたしが、何しているの? と尋ねると、あなたは、この鳥は死んでいるけれど、僕が忘れなければずっと生き続ける。だから記録しているって答えた」

彼は、静かに俯いた。

「わたしは少し驚いたけれど、同時にあなたの言葉に助けられました。あのとき救われたのです。母はもうここにはいないけれど、わたしが忘れさえしなければ、別のどこかでずっと生き続けると思えたから」

ルッツは、安堵したように少し微笑むと、悲しいような、まるで感情が宿っていないような、何とも言えない目で、私の顔をまっすぐに見つめて呟いた。

「ハンナさん、僕のことを忘れないでいてくれてありがとう」

今、ルッツを目の前にして、わたしの頭の中で、忘れようにも忘れられない出会いの光景が、あの夏の日の一瞬一瞬が、夢のような記憶のかけらが、そのすべてが粒子となって繋がってゆくように思えた。

「やっと思い出してくれた。これがハンナさんにとって良かったのか? 僕にはわかりません。他に何か質問はありますか?」

ルッツは、気を取り直したかのように、明るく穏やかな口調だった。

「はい、もうひとつだけお聞きしたいことがあります。なぜ? あなたは、わたしの父の座右の銘を知っていたのですか?」

「ドライデンですね。僕は父から聞きました。ハンナさんのお父さんと僕の父は、古典詩を通して何かしらの交流があったようです」

「そうでしたか」

「今となっては聞こうにも聞けません。だから僕も詳しくはわからないのです」

初めて聞く話だった。わたしは、父からも母からも、本当のことは、何も聞かされていなかった。きっと、兄も……。

「わたしは何も知りませんでした。ルッツさん、いろいろと教えてくださって、本当にありがとう。次は、あなたのお話の続きを聞かせてください」

「その前に、紅茶が冷めてしまうので飲んでもいいですか?」と言い終える前に、彼は慌ててカップに口をつけた。

「すみません。少し気持ちが高ぶってしまって。僕の父は認知症なので、正直言ってどこまでが真実なのかわかりません」

ルッツはそう言うと、出来ればあまり深刻にならずに、話半分で聞いてほしいと付け加えた。

「今、僕の父は60歳です。彼は認知症で介護施設に入居しています。それまでは、祖父母から引き継いだ喫茶店のオーナーをしていました。レコード収集と詩をこよなく愛する平凡な人間です」

「わたしの父と同い年ですね」

「そうですね。もう10年ほど前から躁うつ状態で、元々口数の多い方ではなかったのですが、まったく話さないという日が続きました。母は父との生活に耐えられず、僕が20歳の時に、両親は離婚しました」

「そんなことが……」

「せめて僕だけでも父の良き理解者でいようと思いました。どうにかして分かり合おうと。でも、言葉を交わさない代わりに、大げさなジェスチャーとまばたきの回数が増えていきました」


「それは、どういう意味ですか?」

「親子なのにわかり合えなかった。父の心の内を慮ることはできても、真実ではありません」

「わたしは、真実はそれぞれの人の中にあれば、それで十分だと思っています。例え家族だったとしても、誰かの深い部分に、立ち入ることはしたくありません」

「わかりますよ。僕だってそのくらいのことはわかっています!」

彼は、明らかに感情的になっていた。

「最後にハンナさんに知っておいてほしいことがあります。父がおかしくなったのは、あなたのお母さんが亡くなったからです」

わたしは、自分の心が急激に委縮してゆくのが分かった。

「彼は一瞬で白髪になるくらい憔悴しきっていた。父にとって最愛の人はアキさんだけです。でも誤解しないで。別にハンナさんを責めているわけではありません」

ルッツから発せられた強い言葉は、ふたりの間を張り詰めた空気のように覆い、ある種の沈黙と気まずさを深めていった。

すると、厨房にいるはずのクラークさんが、足取りも軽く颯爽と近づいてきた。

「午後のラストオーダーの時間になりますが、他にご注文はありますか?」

わたしとルッツは目を合わせると、慌ててメニューの一番上にある珈琲と新作のリンゴンベリータルトを追加注文した。

「ごめんなさい。一杯の飲み物だけで長居してしまって」

わたしが謝るとクラークさんは「お気になさらず」と言って、また厨房へ戻って行った。

「もう誰もいないですね。僕とハンナさんだけが残ってしまった。僕はここから見える湖によく来ているのに、一度もこのペンションに来たことがありませんでした」

「ここはホテルにしては、こぢんまりしたスペースですけれど、この村でも人気のエリアにあって、何よりオーナーのクラーク夫妻は、温かな人柄の素敵なひとたちです」

「ここに来て僕にもそれが伝わってきました」

「今日、奥様はお休みされていますが、ここを訪れた観光客は、みんな彼女のことを好きになって帰られるそうですよ」

「ぜひお会いしたかったな」

ルッツは残念そうに言った。

クラークさんの奥様は、数日前から体調を崩していて、この日もペンションをお休みしていた。

そのため、この夏の繁忙期をひとりと数人の従業員で、乗り切ろうと奮闘しているところだった。

静かな店内には、夏の西陽が差しこんで、うっすらとオレンジ色の空間をつくり出している。

窓の外には、夕陽が反射して、茜色に染まった空には、羊雲が規則的に並び、木立から見える湖には、水鳥たちが浮かんでいた。

そのすべてが水面に反射して、まるで、もうひとつの世界をつくっているようだった。

「この村の美しさは気持ちを開放してくれますね。だから、つい何度も来てしまいます」

「そうですね。わたしは、この村に魅了されて移住してしまったくらいです」

わたしたちは、オーダーした食べ物が届くまで、窓の外の景色について話しを続けた。

ほんの数分の会話から笑みがこぼれる。先程までの重苦しい空気はなかったかのように、お互いの気持ちが徐々に打ち解けてゆくのを感じていた。

しばらくして、クラークさんが珈琲とタルトを運んでくると、手際よくテーブルに並べた。

「お待たせしました。どうぞ、ごゆっくりしていってくださいね」

わたしたちは、ほぼ同時に「ありがとう」とお礼を言うと、クラークさんは「気が合いますね」と微笑んだ。どことなく気恥ずかしい。

ふたりでマジックアワーに染まる湖の景色を眺めながら、クラークさん自慢の新作スイーツを楽しんだ。

#創作大賞2022

初めまして。見て読んで下さって、本当にありがとうございます。これからも楽しみにしていて下さい♡