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みえないものと向き合う

先日、友人から「これよかった」と送られてきた動画。

「見えない障害と向き合う」というテレビ局が作ったもの。

よくできているなぁと思うけど、私はこの動画を見た後、違和感を感じずにはいられなかった。

しかし、それはすぐには言葉にできなかった。今、少しずつ、言葉にしてみたい。


私はかねてから「発達障害」ってそもそも「障害」なのか。(私自身がそこまで、障害といえるような苦労をしたことがないからそういうのかもしれないが)そして「障害」とレッテルを張られたとき、それは守られるレッテルなのか、むしろ、あまりよくないレッテルなんじゃないだろうか、と思ってきた。

そもそも「障害」なのか、と思ってしまうには、この発達障害にはグレーなものも結構あって、「みんなこんなところ割とあるよね」って思ってしまうからだ。

あと、発達障害と逆で、空気を読みすぎる人とか、空気を読むことを周りにも求める人とか、あと、組織や集団の中にいると(というか3人以上になれば)悪口、陰口を言わずにいられない人たちとか。周りに非生産的なことを求め始めて、周りの人たちを疲れさせる人とか。

集団(社会)ではうまくやっているように見えるけど、そうやって本人や周りが自覚しないうちに、これってどうなんだろうと思うこともある。これだって、決して悪いことだかそういうものではなく、「障害」なんじゃないだろうか。

人の目を気にせずにいられない、そういったことを周りにも同調圧力をかけてきて、息苦しくさせてしまうこと、陰口をいつも言う人、人の話ばかりする人、そういうのもひとつの「障害」じゃないのかなぁって思う。あまり意識されないだけで。

最近、ドラマにもなった『凪のお暇』という漫画を読んでいて、空気を呼んでばかりの主人公を見ていて、そんなことも思うのだ。それも障害。そして、その周りに出てくる人の陰口、悪口ばかりを言って、人の足を引っ張る人たちも「障害」を持っている。

私が中学生の時くらいに、乙武さんの『五体不満足』がベストセラーになったが、そのころ、どんな人もみな、障害を持って生きている、というようなことが言われ始めていた。

だから、特定の気質に対して、「障害」という流れには、どこか私は違和感や反発を感じるのだ。



最近、友人が会社を辞めるという。

彼は、病院で「発達障害」の診断を受けたのだという。

果たして、発達障害ということを社会は、どこまで受け入れるのだろうと思う。しかし、だからこそ、そんなことを受け入れる会社があったら、そこはいい組織だと思う。



昨日、女性起業家の人たちと、自分の自己紹介資料をお互いに見せ合い、作っていこうという会があった。

ある講座を受けてきたのだが、そこで学んだことをもとに、自分のPR方法を身に着けていく、というものだ。

私は、プロフィールに自分が「うつで2ヶ月間寝込んだ」ことを書いた。正式には、「うつ」だったことはない。抗うつ薬は逆効果だったし、なにより「うつ」と診断されたことはない。「発達障害」と診断されたこともないのだが、私には、あれは「うつ」だったのかなと思うし、自分も「発達障害」なのかなと思うことがよくある。

そして、そのほうがわかりやすいなと思って、逆にそういった経験も生かしていきたいなと思って、入れてみた。

しかし、私のプロフィールを見てくれた人は、その部分に対して「ここは入れないほうがいいと思う」と言った。「うつ」の経験で「身体が動かせるだけでも非常にありがたいなんだと気づいた」ということは載せてもいいと思うけど、とアドバイスしてくれた。

(私はこの人が、ということでもなく、)社会は(まぁ一般企業は)感覚としてそうなんだなぁと思った。

なぜ、ネガティブなことを隠したほうがいいのかなぁ、私はむしろそれを載せたいのになぁとも思った。でも、そういったことって重いのかもしれない。

そういえば、講座の講師のプロフィールにも、そういった時期があり「自己否定、涙が止まらない」というようなことが書かれていた。これはまさしく「うつ」だなと私は思った。けれど、決して彼女のプロフィールには「うつ」とは書いていなかった。人生のなかで挫折はあったことを言いつつも、なるだけ、「うつ」とか「障害」みたいな「パワーワード」はあまり入れないほうがいいのだ、というようなことだろうか。

しかし、私としては、そういった挫折ですら、彼女があまりにも出来すぎていて、スルーしてしまうというか、おもしろくないなぁと思ってしまった。結局、企業相手になるとそうなるのかもしれない。

この人とかかわると、ちょっと面倒くさいかもとなる。個人、一般人、エンドユーザーとしては、「うつ」とかパワーワードを入れたほうが、引っかかって面白いけれど。

私個人としては、あなたのこといいと思うけれど、組織や集団になってくると、また別というような感覚なのかもしれない。お仕事をやっていくうえでちょっと面倒だわ、そういう部分と向き合えないわ、みたいな感じかもしれない。


事故して、どこかけがして、不自由だったとか、乙武さんのように生まれながらにして「五体不満足」とか、見えるものに対しては割とみんな、どこか向き合える。

けれど、それが見えないものになってくると、話は別だ。

多くの人が、何か、怖くなる。それは「自分」をそこに見ているような、鏡のような感じがあって、自分はこうなりたくない、というようなものだと思う。

先にあげた動画もまた、そうだった。私自身が感じた違和感は、そこにもあった。違和感というよりも、気持ち悪さに近いと言っていい。

片づけられない人、文字がきれいに書けない人…共感するようでいて、でも微妙に違う。後半部分で「希望」を見せているけれど、なんだか見たくないものを見てしまったような感じがあったのが正直な意見だ。私はああはなりたくない、という感じだ。

私は片づけられなくて離婚されるなんて嫌だ、私の人生にはそんなことは起きないはずだ、なんて無意識もそこに働いてしまう。見ている一瞬はそんなことが言語化されなくてわからないけれど、そんなような気持が湧いてきて、どことなくそんな自分に「罪悪感」や自己嫌悪もわいてくる。

メディアにするというのは、正直こわい。

見えないものを、文字や映像として「見える」化するとき、誰もが、離しきれない「自分」をそこに見てしまう。そうはなりたくない「自分」。他人だけれど、他人事としてとらえられない自分がそこにいること。

そんな「見えないもの」に向き合うことは、誰だってこわい。

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梅澤あゆみ

物書き。新聞記者4年、考古学の世界(埋蔵文化財)7年、フリーライター4年。子どものころから古いモノと書くことが好き。

日々のエッセイ

日々浮かんだことを自由につづるエッセイ。
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