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牧村らの性的感情について

 彼は住森麻夕に好意のようなものを抱いている。でも性的な気分にはならない。この設定は物語を描く中で自然と生まれたので、何が理由だったかわからない。

 近しい立場のカップルに沢崎とジルがいるが、沢崎はジルに対し性的な欲求を感じている。ただでさえ目などのパーツが似ている沢崎と牧村なので、二人を差別化しなければという意識はあったかもしれない。でもそれは決定的な理由ではない。話の流れ上、牧村は<ああ>なった。

 もしかしたら私が牧村に乗り移って、私として麻夕を見てしまったのかもしれない。私から見ると、キャラクターの固まり切っていなかった初期の麻夕と違い、掘り下げて描き始めた頃からの麻夕はとても好ましい女の子だった。憎めない、少し気が利かない、常識のない、実は優しく、泣き虫で、そういうところを総合的に見るとなんともいえず愛おしい、<家族のような>女の子だ。
 牧村は麻夕より一回りは上であり、麻夕を見たとき私と同じように感じる可能性を少なからず感じた。なのでこの自分の判断に、無意識に従うことにした。これが正しかったのかはわからない。私の感覚は女性的なものであり、更にノンセクシャル(非性愛者)寄りであるため、性的な要素を物語から取り除くことにさほどの違和感がなかった。だからもし自分が男性で、ノンセクシャルと無縁の思考であれば、どうだったろうと考える。漫画に自分の思考を入れまいとはしているが、どうしてもこういうところで隙ができて<入ってきてしまう>らしい。


 デビルズラインの路線として、公式的にカップルを描く際、<テーマ>を切り離すことができない。ここでいうテーマは、「障壁があっても二人は一緒にいられるか」だ。これは必ずしも本作のメインのテーマではないが、重要な柱の一つだ。だから鬼とヒトという障壁もなく、ヒトとヒトである牧村と麻夕から、障壁を取り除くのは公式として憚られるのが基本的姿勢だった。
 だが関係性は変わるものだ。人間も時間をかければ変わるところはあるし、これから先二人がどうなるかは、私個人に決めることはできない。リアルな視点で見れば、二人が性行為をできるようになる可能性は普通にある。別れてしまう可能性もある。別れた後にまたくっつく可能性すらある。可能性は無限にある。


 性行為の問題で言うと、エカとクイーンもいる。彼らも公式の呪縛上、障壁を取り除くことができない。取り除かなくても赦される、というテーマをこの二人は体現する必要があった。だからノンセクシャルのクイーンはエカに赦されており、エカはクイーンに手を出すことができない。にも関わらず、この二人は生涯を共にする。まるで夢のような話だ。理想を描いているにすぎず、それこそに意味があるという側面と、そんな理想はありえないという側面もある。私はエカの生き方をおさえつけているのではないかと思うことがある。
 この二人も、関係性はいずれ変わるかもしれない。本作で描いている以上にぶつかり、議論しているかもしれない。二人は別れる危機に陥るかもしれない。逆に別れとは無縁かもしれない。クイーンは体質が変わり性行為ができるようになるかもしれない。変わらないかもしれない。わからない。公式としてそれらを描くことは<違う>と思うが、全員がリアルな人間だと考えれば、何が起きてもおかしくはない。


 人物を描くのは本当に難しい。すべての人間が赤の他人であり、その役者を最も自然と思える方向へそっと手を引いて連れていく感覚で描いている。想像できる限りの可能性を考える。それでも思いつかないことはあるし、思いついても正しくないことはある。いまだにわからないことは多い。誰もが赤の他人で、人物たちが作中で必死にそうしているのと似たように、私も彼らのことを考え続けている。


(2019.01.16)

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