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安斎結貴について

 本作の中心人物。

 ヒトでもあり鬼でもある。自分を鬼だと思いたくない。ハーフだから鬼とは違う、とハンスに初めて血を飲まされた際に夢の中で主張する。鬼の吸血欲に嫌悪感があり、鬼(自分)に偏見を持っている。
 安斎にとって鬼とは「目を背けたい自分の嫌なところ」である。それに蓋をして見ないようにしたり、できることなら排除したいと思っている。

 ファーストコンタクトで安斎の鬼の部分をなかば強引に受け入れざるを得なかった(安斎にもそんなつもりはなかった)のがつかさで、彼女にとっての安斎は「鬼である」ところから始まっている。そのためつかさは安斎が鬼だと<わかっている>し、安斎が見たくないものをつかさは平気で見ることができる。それが安斎だと<わかっている>からである。
 重要なのは「目を背けたい自分の嫌なところ」が自分の構成要素であるということである。これは実際流動的なもので、仮にこれに蓋をするか、排除するかができたとしても、今度は恐らくまた別の「目を背けたい自分の嫌なところ」が出てくる。構成要素をどんどん削っていくことはできない。ではどうすべきかというと、その構成要素の存在を認め、自分自身のメインの意識との<共存>を受け入れることである。本作ではこれを「赦し」と表現している。
 安斎は自分を赦すことができないため、つかさがそれを補い、つかさが安斎を赦すことで安斎のバランスを保てる場所を発見する。安斎は<バランス>を体験し、その事実を受け入れる。

 安斎にとって「目を背けたい」もの、「鬼への恐怖」の象徴として、菊原がいる。菊原は幼少期の安斎に試練を課し、自分と同じく孤独で強い人間を作ろうとする。菊原は安斎へ鬼への恐怖を植え付ける。安斎にとって菊原は無意識下で「排除したいもの」となるが、全ての記憶を取り戻し、菊原の境遇を理解し、安斎は菊原への苦手意識を持たない存在となる。
 安斎はつかさによって赦しを得て、菊原と対峙することになる。安斎は菊原という「鬼の象徴」、「目を背けたい自分の嫌なところ」を、自分の意志で受け入れることになるだろう。


 また、安斎にとっての鬼、という構図は、排除型社会における何者か、という構図も表す。本作では「何者か」は「鬼」である。現実社会では実に多くのものが「鬼」に当てはまる。小さなものから大きなものまで様々である。そしてそれは実際のところ流動的で、蓋をしたり排除をしても根本的解決にはならず、一つ排除すればまた別のものが排除される。すべては社会の構成要素であり、求められるのは<共存>である。それでも、「鬼」側でありながら自分で自分に偏見を持っている人もいる。事はまったく単純ではない。安斎の中で起きていることと似ている。

(2019.01.16)

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