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なぜ、フォトアートなのか①:良い「問い」を生む写真の力

昨春に京都芸大を卒業して1年。たどたどしくも写真作家としての道を歩み出しましたが、同時にもうひとつ、この1年間、考えに考え、実験を重ねて取り組んできたのが、小学生のためのフォトアート教室です。

ここには写真作家としての私だけでなく、学齢期の子をもつ親としての私、そして、企業人事として働く私の、それぞれの願いや反省が凝縮されています。

写真学生として卒業制作に取り組んだ期間、スキマ時間を見つけて街に出て写真を撮り歩いていると、写真は自分自身を知るとても有効なツールであることに気づきました。
単にぶらぶら散歩するのでなく、自分のテーマを持ち、ひとまとまりの作品にすることを前提として、カメラのファインダーを通して街を観察し、心が動いた対象に対してシャッターを切っていると、自分にとって本当に重要なことは何か、今の自分の関心がどこに向かっているのかがだんだんわかってくるのです。
それは高尚な思想だとかアートセンスなどではありません。ただひたすら「観察」に没頭したことでついてきた結果です。

今、世の中に必要なのは答えよりも問いであると言われています。なぜなら、世の中にすでにある、多くの人にとって共通の問いの大半には、もう答えが出ているから。にも関わらず、社会全体がほんとうに豊かになったとは残念ながら感じられません。そして残されているのは難問ばかりです。その難問に取り組むには、難問のまま正面突破するのではなく、問い方を変えていく必要があります。

アートとは問い続ける行為です。しかしその問いは、自分の心に聞けば泉のように湧いてくるわけではありません。むしろ自分の外側に目を向け、自分の暮らしを、身近な人を、半径5メートルの世界をつぶさに観察し、それと自分の興味関心をリンクさせるところからしか生まれません。
そしてそれはアートにおける問いに限らず、暮らしの中の問い、仕事上の問い、学びの中の問いなど、全てにおいて言えることです。
自分で経験して自分の眼で観察したことの中から、自分は何についてどんな疑問を持ち、何を知りたいと思ったのか。何を解決したいのか。それらを考え続けることからしか、良い問いは生まれません。

けれど今の日本の学校教育では、与えられた問いに対する正解の導き方は丁寧に確実に教えるけれども、どうやって問いを立てればよいのかは残念ながらきちんと教えられていません。
そもそも「問いの立て方」についての適切な解法などありません。ひたすら実践するしかないのです。観察を繰り返し、問いを投げかけあい、自分はどう思うか、他の人はどう考えるのか、互いに学び合うことでしか、問いを立てる力はつきません。そういう時間は学校の授業では不足しています。大学ですら、問いを立てる実践経験を十分に積ませてはくれません。
だから私たちは問いの立て方を学ばないまま大人になり、社会に出て、戸惑うのです。

良い問いを持つには、観察が欠かせません。そして私たちはみんな、観察する経験が圧倒的に足りていません。でも、良いツールがあります。それが写真です。
写真は今や撮らない人がいないほどメディアとして普及しました。まだ自分でスマホを持たない年齢の子どもすら、親のスマホでパシャパシャ撮るのです。
写真は、自分が観察したものをそのまま(とここではあえて言います)記録してくれる素晴らしいツールです。なんなら、目に留まった瞬間にとりあえず撮るだけ撮っておいてあとからじっくり観察することもできます。
ところが、あまりにも身近になりすぎたために、写真は日々無限に生み出され、そのほとんどがろくに振り返られることもなく、人々のスマホの中にひたすら蓄積していきます。もったいない。それでは単なる記録媒体としてすらも生かされていません。見返さない写真は、撮っていないのと同じです。

写真は観察に最適なメディアです。しかもアートメディアにもなるのです。動画と違って勝手に流れていかないので、1枚の写真を好きなだけ観察していられます。さらに良いことに、シャッターボタンを1回押すだけで誰にでも撮れるのです。
ならば写真を通して身の回りの物事を観察することは、もっと広くたくさんの人にとって当たり前になってもいいのではないか。
SNSで「いいね」を獲得する手段ではなく、自分にとって大切な問いを探るための手段として、もっと写真は生かされるべきではないか。
そうやって写真と、そして自分自身と向き合う人が増えたら、世の中は今より少しだけ良い方向に向かうのではないか。

これが、大学に入り直してまで写真を学んだ私がたどり着いたひとつの重要な「問い」です。そんな問いから、小学生のためのフォトアート教室は始まりました。

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