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「人類学」に興味がある

Audibleで「はじめての人類学」を聴いた。

先日「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと」の「人類学者」の方、奥野克巳さんの著書だ。

人嫌いでありながら、人というものに興味があり過ぎるわたしにとって、「人類学」は魅力的な学問だ。
人類学系の本を読むこともあるけれど、ワクワクしながら右から左に忘れていく。それでもめげずに入門書にチャレンジしてみた。
面白い。興味深いのだが、3倍速の流し聞きの上、マインドワンダリングが甚だしい。でも聴きたい。じっくりゆっくり聴ける時がいつやってくるか分からないので、駆け足でも聴く、聴きたい。

人類学者の足跡を4人の重要な人物の業績から解説されている。
最後の「インゴルド」さんの章で、「知識と知恵」について述べられていたのが、「これだ」と思った。

知りたい、知識を得たい、もっともっとと本を読み続けている。それは、楽しいことでもあり、どこまでいっても満足せず、時には強迫的に「自分が何も知らない」ことや「知識が血肉となっていかない」ことに焦っている。
この状態がずーっと不快でありながら抜けられない。
そこを整理するヒントがここにあるのではないかと感じた。

知識は私たちの心を安定させ、不安を振り払ってくれる。知恵は私たちをぐらつかせ、不安にする。知識は武装し、統制する。知恵は武装解除し、降参する。(『人類学とは何か』奥野克巳・宮崎幸子訳、亜紀書房、2020年、15頁)

なるほど~と思ったものの、「知識」はちっとも私の心を安定させてくれないように思う。
「知識」はモノを固定したり説明する時に用いられる。わたしは人に「説明」することが苦手だ。「知っている」と思っていることでも「言語化」できないから、それは「知識」として蓄えられていない(と思っている)。

「知恵」は、世界の中に飛び込んで、そこで起きていることに晒される危険を冒すことから開かれてくるもの。
自分の殻に閉じこもっていたいけれど、世界の中で「生きている」、それしかできないという事実がある。
閉じているつもりでも、世界の中で、そこで起きている諸々の渦に巻き込まれざるを得ないから、グラついているのだろうか。

インゴルドの定義で、人類学は「世界に入っていき人々と共にする哲学」
だから、「人類学」に惹かれるのだなと思った。

ヒトに興味があって、世界に入って生きたい。

そんな気持ちが紛れもなく「ある」
だけど、とてつもなく「こわい」
こわいこわいこわい
今はとっても「こわい」を感じている。


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