八丁堀小町おさきの事件帳

「ながもちの役者」

2、人気役者・市澤雪之助
(にんきやくしゃ・いちさわ ゆきのすけ)

「ごめん。坂野様」
木戸口(出入口)の方から、おさきの聞きなれた声がきこえた。
おさきの父、木村拓磨が娘を迎えに来たのだ。坂野家の主人、源太郎とおさきは、先をあらそうように走って出た。
「父上……。たいへんです」
「ああ、木村。良いところに来た」
二人のあわてふためいたようすに、拓磨は、目を白黒させた。
「いったい、どうしたというのです?」
「まあ、とにかく来てくれ」
源太郎に急かされ、おさきに手を引かれて、拓磨が部屋に入っていくと、痩せて色が白く、花もようの着物を着た若い男が、隅の方で大粒の涙を流して、しゃくり上げている。
部屋の真ん中には、ふたのあいた死体入りのながもちが、棺おけみたいに、置いてあった。
「これは……」
拓磨は部屋に入るなり、それっきり言葉が出てこなかった。
おさきと源太郎が、かわるがわる説明する。
「着物のかわりに男が二人、入っておったわけじゃ。しかも一人は死んでおる」
源太郎は、そう言って頭をかかえた。
拓磨は、泣いている男を見た。
「あの男は、何と?」
「それがな……。おい、おまえ、泣いてばかりいても、何もわからんだろ? せめて、自分の名ぐらい言ったらどうだ」
源太郎は、若い男を怒鳴りつけた。しかし、男はいっそうおびえて泣いているばかり……。
「お役人様、私は、そんな男のことなど知りません。ましてや、殺してなどいません。どうか、信じて、信じて下さい」
「先ほどから、ずっとあの調子じゃ」
源太郎は、また頭をかかえた。
拓磨は、泣いている男を、黙ってじっと見た。その袖を、おさきが、そっと、
引っぱった。
「父上、私、あの人をどこかで見たことがあるような気がします」
「おまえもそうか? あ、そうだ。坂野様、あの男、もしや芝居の役者では?」
拓磨が言うと源太郎も男をにらんだ。
その時、美和が部屋に入ってきた。
「そうよ、思い出したわ。あら、拓磨さん、いらっしゃい。おさきちゃん、その人、人気役者の市澤雪之助よ」
「そうですよ、美和さん」
「そうだ、そうですよ。坂野様」
親子は、ほとんど同時にさけんだ。
「ひ、ひぇ。どうかこのことはご内密に、お、お願いをいたします」
市澤雪之助と呼ばれた男は、たたみに両手をついて、ひたいをこすりつけた。
「心配するな。おまえと同じくらい、婚礼の前に人殺しとは、我が家の名にも傷がつく。木村、おさき。このとおりじゃ。この一件、内密に調べを進めたいのだが、この坂野に力を貸してくれんか」
源太郎が頭を下げようとすると、拓磨がそれをおしとどめて言った。
「もちろんでございます。おさきには、
しばらくお宅のお手つだいをさせます。
で、このながもちは、いったいどこから運ばれたのですか? 」
「後藤(ごとう)という呉服屋だ」
源太郎と拓磨のやり取りをきき、びくっと顔を上げる市澤雪之助を、おさきは見逃さなかった。
(続く)
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