されどダメ人間は踊る

先日、思いがけずツイッター(X)を辞めてしまった。
思いがけず、というのは違うかも。私は前からSNSを辞めたいと思っていたから。
何度かツイッターアプリを消しては、結局ブラウザからログインしてしまって、チラチラと見てしまっていた。
ふと、「こんなに見てしまうならログアウトしてしまおう」と軽い気持ちでログアウトをタップした。また見たくなれば、毎回面倒なパスワードを入力して見るようにすればいい。簡単に見られるから依存するのだ、と。
そうしたら、もう二度とログインできなくなった。理由はシンプル。パスワードもIDもわからなくなってしまったから。

かくして、こうもあっさりと、私の人生に長らくへばりついていたツイッターという存在が、私の生活から消えてしまった。

ツイッターを見られなくなった私は、以前に増して本にのめり込んでいる。
桐野夏生の『グロテスク』でさえ、1週間もかからないほどで読み終えた。
それほどの時間が今まで、あのタイムラインを無限に流れる有象無象のために費やされていたという事になる。
はぁ……。

タイパ という言葉が流行っているらしい。コスパコスパと騒いでいたかと思えば今度はタイパ。時代は費用対効果ではなくて時間対効果なのだ。

私には友人がほとんどいない。なぜか?私に関心を持つ人がいないからだ。流行風に言うなら、私に時間を割くことはタイパが悪いからだ。
自己否定的?そういうわけじゃない。私がその人の時間に相応しい価値を持たないというだけのことだ。

私が隣の席の課長の話を右から左へ流しながら生返事をしているのも、課長の無駄話に集中を傾ける時間に価値を感じないからだ。別に、生返事をすることで課長に何か打撃を与えたいわけではないのだ。そう、課長の話はタイパが悪いのである。


うーん。アイコンが四角から丸に変わっても、☆が♡に変わっても、青い鳥が謎のXマークに変わっても、飽きもせずタイムラインを上から下にスワイプして有象無象の呟きを追い続けていたあの時間は明らかにタイパが悪かったはずなのだが、その時間を無駄にしたと思うのが不愉快なのはなぜだろう。

私が友人と会って、半日ほど一緒に過ごして、家に帰って今日はありがとうのLINEを交わしている時、友人は「今日はあんまりタイパが良くなかった」とかって思われているんだろうか、と思うと、流石に暗くなる。

彼氏持ちの女子と遊ぶ時がいちばん怖い。こんなだったら彼氏といった方が良かった、と思われているような気がする。
…否、これは被害妄想だ。もはやタイパの話ではない。
というか、彼氏と比べられるならまだよいほうで、「家でYouTubeでも見てる方が良かった」の方が、現実に近い気がする。つらいなぁ。


こういうことを考える時いつも、もう二度と人間などと関わるものか!とか、かたくかたく誓うのだが、人間様と関わらないで生きられるほど生活は甘くはないのである。

私は子供の時から耳鼻咽喉科の世話にならずには生きられない体だった。
一日数回鼻血を出し、年に1回中耳炎をやり、治ったかと思えば喉が腫れ…今に至っても、発声の仕方がよくないのか、基本的にいつも喉がやられている。
今も、某流行り病の後遺症の治療のために耳鼻咽喉科に週1〜2回ほど通っている。
今お世話になっている先生はとてもいい人で、仕事帰りのくたびれ顔でフラリと入ってもいつも丁寧に施術をし、毎回調子はどうかと尋ねてくれる。
そんなのは医者として普通のことだ、とお思いかもしれないが、これは普通のことではない。私が知る限り、医者というのは、くたびれた会社員の女などに丁寧な診察をしないのである。(異議はおおいに認める)

とにかく、私は医者にかからずにはこの問題だらけの耳鼻咽喉を抱えて生きていかれないということである。

生活をするというのは、ただ食って寝ればいいのではない。仕事に行き、つまらない話に相槌をし、友人をもてなそうとして空回り、反省して落ち込み、自力で盛り返し、耳鼻科に通い、仕事で腫れた喉のためにのど飴を買い、米を研ぎ、浄水ポットに水を足し、皿を洗い、むしさされにムヒを塗り、風呂を洗い、夜は30分ほど外を歩き、図書館に本を返し、郵便局に荷物を取りに行き、歯医者に予約の電話をし、転職サイトからのメールで埋まる通知欄を眺め、モンステラに水をやり、YouTubeでD1を見て、23時までに寝床に入り…とにかく、やらなければいけないことがたくさんありすぎるのだ。タイパを求めるのもやむ無しである。映画を2倍速で見る若者を誰も責めることは出来ないのだ。


ダメ人間でも、生きている以上、生きねばならない。私は、そのことを受け入れられるまでに23年もかかった。まだ、たまに受け入れたくない時さえある。一度エンジンが切れると、次にエンジンをかけ直す時は物凄い労力がいる。だから、エンジンが切れない程度にアイドリングし続けるしかない。
生きねばならぬ、とは、なんと押し付けがましい言葉だろうか!と憤慨していた頃もあった。とんでもない。ダメ人間が、ダメ人間によるダメ人間のための言葉だったのだ。
ダメでも、生きていかねばならぬ。なぜか?生きているからだ。
そうやって、大槻ケンヂが歌っているからだ。

?????



遺品整理の仕事を題材にしたドラマの紹介を見た。
アスペルガーの青年の役をしている韓国の俳優さんの演技がリアルで、すごいなぁと思った。
中学の頃、付き合うとも付き合わないともない関係だった男の子に顔が何となく似ていた。
彼は元気だろうか?
私が、手をつなごうよと言ったら、(自分の)手汗がすごいから嫌だと言われた。照れ隠しかと思ったが、本当に手はつないでくれなかった。あれは手を繋ぎたくないがための言い訳だったのか?本当に手汗がすごかったのか?今は確かめようもないが。手汗なんて気にしない相手がいるといいなと思う。



缶を振って飲むタイプのゼリー飲料って、もうないんだろうか。実家の近くの自販機には、たしか3年前はまだあったはずだ。

3年前。あの頃の私はハタチ。私は3年で何を得たんだろう。
仕事には慣れたが、結局合わないのでそろそろ辞めたいと思っている。大好きな人と同棲を始めたが、相手の気持ちが徐々に冷めていくのを感じている。
あちらを立てればこちらが立たず、あっちもこっちも気にしていては前が見えなくなる。
前ばかり向いていては足元をすくわれる。
タコ踊りしながら生きていくしかない。結果は神のみぞ…というやつだ。
死にたいとはもう思わない。そもそも、人間は死にたいからって死ねるものでもなければ、生きたいからって生きられるものでもない気がするのだ。
どうせ生きるなら、せめてタイパのいい人生を送ろう、そのためにちょっとだけ努力しよう。考えるのはそれだけでいい。

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