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私たちは「見えないすべきに」振り回されがち。

ちょっと言い過ぎたかもしれないけど。笑
この前友達と話して考えたことで、周りと比べてしまう話にもつながるかもなって思ったこと。

彼女の話

彼女は休学仲間で、たくさんのイレギュラーな道に進んだ人、進み続けている人たちに囲まれた環境に身を置いている子。

妹みたいでかわいくて、でも将来のことをいっぱい考えている子。


そんな彼女は滞在場所で会う人たちに「なぜ今の道に進んだのか」をよく聞くらしいんだけど

そうすると「旅がすきだったから」という感覚的な言葉だったり、「学校辞めちゃえばいい!」といったチャレンジャーな言葉がかえってくるらしい。

そういう話を聞くのは楽しくても、いざ一人の時間を取って自分の進路として取り込もうとしたときに、どうしたらいいのか。どの意見を信じたらいいのか分からなくなってしまうという話がでた。

それに対して自分が伝えたこと

「その人たちのいってくれていることは結果論でしかないから、こんな考えがあるんだ~。くらいに考えて。ひとからのアドバイスはとどめておくレベル。

7割くらいで流した方がいいんじゃないかな。全部ぜんぶに向き合うと疲れちゃうしね。」って感じだった気がする。笑

実は太文字のところは、私にとってキーポイントになった場所で出会った子に言ってもらった言葉だ。

この相談がなかったら気づきもしなかったけど、もしかしたらこの言葉のおかげで自分の感覚や考えに集中できたのかもしれない。

結果論の話

もちろん。彼女にアドバイスしている人たちは彼女を考えて話をしていると思うし、少なくとも彼女を困らせたくて話をしているわけでは当然ない。

でもやっぱり「結果論にすぎない

仮に彼女がアドバイス通りに大学をやめ、なにかしらやりたいことに注力したとしても

「彼女の」環境、年齢、目標、学力。本人がどうしようもない部分で言えば性別。これらの条件によっても成功するかどうかは変わってくる。

アドバイスをしてくれた方々はそれらの条件をないかしらクリアしたうえで努力したから、いまの道を進み続けられるレアな人であって、似たようなことをしようとして失敗しているひとが大半。



憧れるのはいいが、それらのアドバイスを活かせなかったからといって「自分はダメな子である」というわけでは全くないし、活かそうが活かすまいがアドバイスをくれた人たちが私たちを助けてくれることはきっとない。

ちょっと話がずれちゃった。

私が持ってた休学中の劣等感もこんな感じ?

結局「見えないこうすべき」に振り回されていたんだと思う。

彼女はアドバイスやエピソード。私は「私にできないことを楽しんでこなす」仲間たちから。

「もっと積極的に話しかけるべき」「疲労なんかと無縁なような状態であるべき」みたいな。

「思いきりを重要視すべき」「普通の進路じゃ、ここまで来た意味がない」「社会のレールからはずれて楽しいことした方が勝ち」みたいな。

もちろんこれらは強制されて埋め込まれた話じゃない。我々の受け取り方でこうなっていったっていうものだと思うけどね。

逞しく生きたいもんじゃわい。


私の場合はこれらに振り回されなくなったのは

ある意味、諦めがついて「今の自分を受け止められた」ことが大きく。

その結果「人はひと、私はわたし」の境界線が自分の中ではっきり区切りがついたことが理由として挙げられると思う。

「社会が定義する幸せ」と「個人の幸せ」が別であるはずなのに、なぜこんなに切り離すのは難しいんだろうとよく考える。

彼女もだけど、自分の友人には「個人の幸せ」を大切にしてほしくて。

甘い考えかもしれないと、始めに伝えたうえで「振り回されて疲れ切っちゃわないかと心配になってしまうから、個人的には無理に動かずに自分の考えと向き合ったり、ぼーっと過ごしたりしてみてほしい」とも伝えた。


私の周りのひとは本当に頑張り屋さんが多いと改めて感じた一件でもあったし、なんとなく受け取っていた言葉に助けられていたかもしれないと気づけた一件でもありました。

深夜テンションで眠たい。こんなことせずに課題して、本も、勉強もせんとなのにまた趣味してるねうける。

おやすみ。あしたからちゃんとするからねん。


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