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ファロスの見える家         美声玉

【これまでの経緯】
 渚沙は絵に何を表現したいのか、訴えたいのかわからなくなっていた。そんな時、ボブヘアの髪にしっとりと雨水を含ませた青白い顔をした女性が飛び込んできた。この女は声が出ないと言った。


 壮介はその場をそぉっと抜け、キッチンに消えた。
 ――南海子。どうすればいい。
(もう、わかっているでしょ。お婆ちゃんのあれよ)
 何やら柑橘系の香りの中に気分がウキウキするような甘くて優しい匂いが流れてきた。
青と緑の縁取りのある四角い皿の上に、つやつやと輝く鮮やかな黄色の丸いものが三つ載せられている。壮介はそれをふたりの前にサーブした。
「壮さん、これ、ひょっとしてキンカンじゃないの。懐かしい。田舎のおばあちゃんの家の庭に植えてあって、子供のころ、風邪をひくと食べさせられたわ」
渚沙は昔を懐かしむように目を細めた。


ひろ子は匂いに誘われるよう白ワインとともに甘く煮込まれたキンカンのコンポートを口の中に入れる。キンカン特有の柑橘系の香りが口いっぱいに広がる。そして、ブランデーの芳香が鼻孔の奥に届いてくる。
――ああ、喉の奥深くまで潤うような、キンカンのエキスが声帯に浸透していくのがわかる。
ひろ子の喉が喜んでいる。爽やかな風が体の中心をサーッと通り抜けたあとのような、すっきりとした気持ちになり、その清々しい感覚に、ひろ子はとても幸せな気分になった。
「壮介さん、このスイーツはなんというのかしら」
 ひろ子が訊いた。
「それはねぇ、『美声玉』と名付けました」
「美声玉ですか。喉がすっとするような、キンカンの香りとハチミツかしら、優しい甘さが嬉しい。それにブランデーの香りが大人っぽくて素敵。とても美味しいです。それに、声までよくなるんだったら、もう最高です」


 壮介は気に入っていただいて良かった、と応えると再びキッチンに消えた。すぐに戻ってくると右手にタッパーウエアを持っている。中に黄色い玉が入っているのが見える。
「この中に『美声玉』が十個入っています。コーラスの練習の前にひと粒食べてください。いい声が出ますようにって」
「ええ、ほんとうに。ありがとうございます」
 ひろ子は礼を言い、スツールから立ち上がった。ドアまで来ると、くるりと振り返った。
「また来ますね」
「ええ、またのご来店を心よりお待ちいたしております」
「待ってるから」
 渚沙が応えると愛之助も渚沙の膝の上でぴょんと立ち上がり、一生懸命に尻尾を振っている。


 霧雨はすでにやみ、外はすっかり夕暮れ時、薄青い空に紅色(くれないいろ)の夕焼けが混じっている。地上を照らす残り少ない太陽が山の稜線を金色に染めている。
ひろ子は黄金色の光景をうっとりと眺めていた。そして、トートバッグを肩に抱え直すと、「ファロスの見える店」から続くだらだら道を下って行った。

 ギラギラと初夏の太陽が輝いている。
ギョギョシ、ギョギョシ、ケケケケケ、とオオヨシキリが鳴きながら飛んで行った。
渚沙は海の見える庭のいつもの場所で絵を描いている。額から流れる汗を手の甲で拭うと恨めしそうに空を睨んだ。ひとつ小さく息を吐くと、キャンバスを抱えロビーへと引き返した。
「壮さん、何か冷たいものをちょうだい。喉がカラカラ」
 首に巻いたタオルで額の汗を拭いながら、掃き出し窓から入ってくる。
ちょうどそのとき、フロアの隅っこで体を丸め、退屈でつまらなさそうにしていた愛之助がぴょんと飛び起き、ドアに近づき尻尾を勢い良く振り始めた。ドアベルがチリリンと鳴ると、美咲が疲れきった様子で帰ってきた。どこへ行っていたのかと心配していたが、何事もなかったようだ。
「おかえり」
渚沙は何も聞かずに美咲を迎えた。


 愛之助はぴょんぴょん跳ねながら美咲の脚にじゃれついている。
「ただいまー。あいのすけー、会いたかったー」
 美咲は愛之助を抱き上げるとこれでもかと頬ずりをし、愛之助は美咲の顔を舐めまわした。
「きゃははぁ、あいのすけー」
美咲は嬉しそうに満面の笑顔を見せた。
再びドアベルがチリンと鳴った。目を真っ赤に腫らし、やつれ切った女が入って来た。
「いらっしゃいま……せ」
美咲は反射的に振り返りながら返事をしたが、女の様子を見て思わず息を飲んだ。


「加奈さん……。お久しぶりです。どうぞこちらへ」
 美咲は加奈のただならぬ様子に愛之助をギュッと抱きしめた。
 加奈はドア近くのスツールに重い体を引きずるようにして倒れ込んだ。
「何か飲み物をお持ちしますね」
 壮介はキッチンへ消え、渚沙は加奈の隣のスツールに腰をかけた。そして、加奈の背中にそっと手を回し優しく撫でた。
 加奈は渚沙の方を振り向くとそのまま抱きつき、ウッ、ウッ、ウッ、と嗚咽が漏れ出た。涙があふれ出すと肩を震わせ、人目もはばからず堰を切ったように泣き始めた。
 あっ、あっ、あー、あああああああー。あああああああー。
渚沙は加奈を抱きしめ、背中を優しく撫で続けた。どれくらいそうしていただろうか、壮介が赤い飲み物を持って現れた。
美咲はソファーに座り、愛之助を抱きしめ、身を固くしてふたりの様子を見ていた。


「美咲ちゃんもこっちに座って」
 壮介は一つ残ったスツールを指さした。そして、同じ赤い飲み物をカウンターに置いた。
 渚沙は赤い液体の入ったタンブラーグラスを手に取ると、それを加奈の手に握らせた。加奈はひくひく泣きながらストローをくわえると、グラスの中身をひと口含んだ。
「うっ」
加奈の口から言葉が漏れると、ほんの一瞬だったが頬を緩ませた。
「うわぁー、冷たくて美味しい。壮さんこれ、なかなかいけるわよ。これ、なんなの」
渚沙はあえて明るく振舞い、ごくごくと半分ほどを一気に飲んだ。


「赤のグレープフルーツとブルーベリーを赤ワインで煮ています。それをベースに蜂蜜とレモンで味を調え、ブロックアイスを加えたものです」
 渚沙は、「へぇ~そうなんだ」、と大袈裟に驚いて見せたが、加奈は固い表情のまま手渡されたグラスをじっと握りしめたままだった。ゴトンとタンブラーを置くと加奈の固く結ばれていた唇が開いた。
「今朝、芽依が死んだ。あたし……、あたし……」
 そこまで言うのがせいいっぱいだったのか、再びカウンターに突っ伏し泣き崩れた。
 加奈のワァーっと泣き崩れる声がフロアに響く。三人は声をかけることもできず、ただ黙って加奈の気持ちが落ち着くのを待った。


 やがて加奈の涙も涸れ、絞り出すようにか細い声で話し始めた。
「あたし、壮介さんや渚沙さんに言われ、芽依が生きている間に一緒に楽しい時間を過ごそうと決めたのに、芽依のこと、なんにもわかっていなかった。芽依の好きなこと、好きな食べ物、好きな色、好きな服、好きな花、なんにも知らなかった。もっともっと一緒に居て、いろんなことをして、芽依のことを知りたかった。わがままもいっぱい言ってほしかった。困らせてほしかったのに、芽依は最後まで、こんなダメな母親のことを気づかって、母さん泣かないで笑ってよって言って……」
 加奈は両手で顔を覆うと再びワァーっと声を上げ泣いた。
「お母さんと一緒にいて、泣いたり笑ったり、そんな当たり前のことが嬉しかったはずですよ、芽依ちゃんは……」
 壮介はカウンターの中から優しく言葉をかけた。


「そうだよ。壮さんの言うとおりだよ。芽依ちゃんはお母さんのことが大好きだったんだよ。一緒にいるだけで、寄り添ってくれているだけで幸せだったんだよ」
 渚沙の言葉に加奈は目を真っ赤にして何度も小さくうなずいた。
「天国にいる芽依ちゃんが、いつまでもめそめそして悲しんでいるお母さんを見て、喜ぶと思いますか。ぼくが芽依ちゃんだったら、絶対にイヤですね。お母さんが悲しんでいるところなんか見たくない。お母さんにはいつもにこにこしていて欲しい、これまで以上に楽しんで幸せでいて欲しいと思うはずですよ」
 加奈は手の甲で涙を拭うと、ぼんやりと天井を眺めた。そして、ふーっと息を吐いた。


「芽依が死んで、ベッドの傍でうな垂れていると、同じ病棟の子供たちがやって来て、これを渡してくれたの」
 加奈がトートバッグから取り出したのは、何か絵のようなものが描かれた数枚のカードのような紙切れだった。そこにはデフォルメされたトンボやチョウチョ、ウサギ、チューリップの絵が描かれている。
「これは?」
 渚沙が訊いた。
「芽依は赤ちゃんのころからあたしが描いたトンボとウサギの絵が大好きだったの。病院で退屈しないよう、喜んでもらおうと思って描いたもの。芽依はそれを病院のお友達にあげてたみたいで。それをお友達が、芽依ちゃんが好きだったから返すって。どうしてって聞くと、芽依ちゃんが天国に行くとき、トンボとウサちゃんも一緒だと寂しくないでしょって」
 加奈はそう言うと再び両手で顔を覆った。


 美咲はどう慰めればいいのか、言葉が見つからない。唇を噛みしめ、トンボの絵をじっと見つめていた。
――あのトンボの絵、見たことがある。確か、おさげ髪の可愛い女の子がしていたブルーのマスク。そこに描かれていたトンボと同じだ。格好いいマスクをしているなぁ、と思っていた。今にも青空に飛んでいきそうなトンボ。あのおさげの女子が芽依ちゃんだろうか……。その子が死んだ……。
美咲は黙っていたがM市中央病院で看護師をしている。だから、早出と遅出があり、順番に夜の当直勤務もある。美咲はそのことを壮介や渚沙に言いそびれていたのだ。


美咲の担当部署は本館四階にある認知症や障害のある老人の病棟だった。そこでイヤなことがあると、別棟の小児病棟に逃げ込んでいた。子供たちのかわいい顔を見ているとホッとして癒されるからだ。そこでお友達と仲良くおしゃべりしている元気なおさげの女の子を見かけた。その女の子はいつもブルーやピンクのマスクをし、そこにはトンボやウサギ、チューリップの花が刺しゅうされ、とても似合っていて、かわいらしい女の子だった。あたしもあの子のように誰とでも仲良くおしゃべりができればいいのに……、うらやましく思うことさえあった。


――あの可愛い女の子のお母さんが、加奈さんだったんだ。神さまは、なんて意地悪なんだろう……。
壮介は渚沙が加奈の話し相手を始めると、キッチンに入りスイーツを作り始めた。
――フルーツサンドにしようと思うのだけど、どうかな。
(そうね。フルーツをいっぱい食べて、元気になっていただきましょう)
壮介はフルーツサンドを持ってカウンターに姿を現わした。
「これを食べて元気になってください」


加奈は一瞥しただけで、喉を通るような気がしなかった。四角に切られた断面から、艶やかな薄ピンクの桃と緑のキウイフルーツがのぞいている。ふわふわと白いのはホイップクリームだ。
――この黒いものは……、小豆餡だ。
加奈は食べる元気はなかったが、色とりどりのフルーツにつられ、ひと口かじってみた。自然に「ああ」、と声が漏れ出た。そして、ふた口、み口とフルーツサンドを口に運んだ。
――桃の柔らかな果肉と優しい甘みの果汁が口全体に広がる。甘さを抑えたクリームと餡が酸味の利いたキウイフルーツと見事に調和している。
「美味しい……」


小さな驚きと優しい甘さに、加奈のカチカチに固まっていた心がほぐされ癒されていく。何も喉を通らないと思っていた加奈だったが、フルーツサンドのふた切れを平らげた。そして、同時に出されたワインジュースを飲み干すと、青白かった顔にほんのりと赤みがさした。
「壮介さん、渚沙さん、美咲さん、話を聞いてくれてありがとう。みなさんのおかげで気分が落ち着いてきました。今度はもっと元気になってまた来ます」
そう言うと加奈は、「ファロスの見える家」を出て行った。

「加奈さん、少し元気が出たようね」
渚沙は玄関で加奈を見送ると、スツールに座り直した。
「ねえ、壮さん。ジュースとサンドイッチはなんと名前を付けたの」
「ワインジュースは『哀惜』という名にしました。サンドイッチは『また、いつの日か』、です」
「哀惜だから赤いジュース? 血の色。血の涙ってこと?」
「まあ、そうですかね」
 壮介はあいまいに答えた。
渚沙は空になったタンブラーグラスとフルーツサンドの載っていたプレートを眺めた。
――『哀惜』と、そして『また、いつの日か』、か。そうだよな……。
渚沙は感慨深げにうなずいていた。

 『美声玉』
  子供のとき風邪を引くと
  婆ちゃんがお呪いと一緒に
  食べさせてくれた
  キンカンの甘煮
  翌朝すっかり良くなっていた
  不思議なふしぎな黄金玉
               宇美 

【真珠の涙】予告
ビジネススーツをきっちりと身に付けた四、五十歳ぐらいの女性。佇(たたず)まいからして大学の教授か、弁護士、それとも医者か、テレビドラマに出てきそうなツンとすましたお堅いキャリアウーマン。そんな風貌を漂わせた女が店に入ってきた。

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