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いびつな愛情 第3章 ~愚かしさの文脈を読む~

 産科医にはもう一日入院したほうが良いと言われましたが、上の息子が寂しがっているからと言って、翌日には退院。本当は息子が恋しいのは私のほうで、「もうこんな場所にいたくない」そういう思いが強くありました。退院すると、自宅に戻らず、そのまま息子を預けている義理の実家へ行くことになりました。
 外へ出ると、突然現実が目の前に現れたような感覚があり、逆に、入院していた五日間が、別世界にいたのだということを実感しました。院内はいつもに適温で、この世界に生きていることや、この世界の季節感を忘れられましたが、病院を出ると、そこは確かに、日本の九月四日だったのです。穴に棒を入れられるという日課が、非日常的なタスクでもありますので、そういったことをすべて終えてしまい、むしろこれから永遠に日常が続くのかと思うと、それはそれで恐怖だなという感覚に陥りました。第二子を持つという希望も捨て、我が子を殺めたという罪を背負い、これまでと変わらず毎日を積み重ねるということができるだろうか、と不安でした。洗濯や掃除はどんな気持ちでやるものだったか、どのくらい面倒くさいことだったのか、私は今日から、嬉しい時に、どんな表情で喜べば良いか――、そういう当たり前のことを当たり前にこなすことにこそ、何かハードルを感じるような、そんな初めての不安を、私は確かに感じていました。
 そういった心配を持ちながら、夫が運転する車に乗りました。この時までは、こういった憂鬱を夫に受け止めてもらえると、私はどこか期待していたと思います。でも、義実家へ向かう車中、夫との間でこの話題は永遠にタブーになりました。私の気持ちを受け止めてもらえないだけでなく、むしろ受け止めてあげないといけない立場であることに気付いたのです。私より夫が傷付いている、その空気をはっきりと感じ取りました。
「友達とか親に、ミドリのことを支えてあげろよって言われるんだ」
 夫はフロントガラスに視線を置いたまま、前を向いて無表情に話し始めました。「けど……」
「けど、流産とか中絶とかって、奥さんにばかりフォーカスされるけど、実は旦那もシンドイんだよなぁ……」
 こちらに視線を向けることなく放たれた夫の言葉を、私は助手席で受け止めました。「あぁ、この人に頼ってはいけない――。この人は傷付いている、私が支えてあげないといけない――」そう思いました。
「そうだよね、旦那さんだってシンドイよね。傷付いているのは女の人だけっていうのは、逆に男性を傷付けるよね」
 私はただ同意しました。

 私は夫が大好きでした。繊細で優しい夫が。だから、この言葉も彼らしいと感じましたし、少しキュンとする想いで聞いたところがあるのです。
 その一方、ものすごく冷静な自分もいました。「私の痛みは夫に開示できない。この先の人生、一人で抱えて生きていかなくてはならない」そんな孤独感を覚悟しました。
「ミドリのお母さんからも連絡がきたんだ。ミドリをお願いしますって……」
「……ごめんね」
 私は心の中で、鈍感な母を責めました。こんなに繊細な男が傷付いているのに、なぜわからないのだろうか――。女ばかりが傷付いているわけではないということが、なぜ想像できないのか。夫にそんな忠告をして、私に対する優しさのつもりかも知れないが、余計なお世話じゃないか、なぜ母はいつも自分のことしか考えられないのだろうか――。
「……ごめんね」
 私は夫にもう一度謝りました。
「うん、大丈夫」
 感傷的な表情で、彼は私の謝罪を受け入れました。

 これがきっかけとなり、私はこの件に関して、ひとことも夫に泣き言を言わなかったと思います。泣きたかったし、抱きつきたかったけど、夫の前では常に平静を装い、努めて明るくしていました。夫の胸に飛び込みたい、夫の背中におでこを当てたい、ちょっとその肩を借りたい、少しだけ触れたい、甘えたい、そう感じるたびに、心の中で、「この人は私より弱いから」と念じていました。決して夫の肌に触れることはありませんでした。それをしてはいけないと、私の理性が強く働いていたのです。
 自立した健全な大人がこのような中絶をしたのなら、抱き合ってお互いに泣けば良かったのかも知れません。中絶自体は確かに悲しい決断ではあるけれど、そこには本人なりの葛藤があり理由があり、そうすることを選んだという意味においては、出産を選んだことと同じように、尊い決断に違いありません。だって選択自体に正解や優劣はないでしょうから。まずは泣いて、悲しみを身体いっぱいで感じれば良いのだと思います。悲しむことは決して逃げることではないのだし。
 そうやって自分たちの罪はいったん脇に置いて、この悲しみをまずは二人で慰め合う、それがヘルシーで自然な行為なのではないでしょうか。そうして自分たちになりに反省をして、前を向き同じ過ちを繰り返さないように、生産的な話し合いを重ねるような――、そんな建設的な生き方ができたらどんなに良いかと願ったけれど、私たちはお互いにプライドが高かったのかも知れません。
それは決して叶いませんでした。どこかで「自分は犯罪者になりたくない」そんな保身が、そんなちっぽけなプライドがあったのではないかと、そんな風に思います。「自分たちには悲しむ権利なんてない、人を殺めているのだから」と――、そうやって罪を背負っている風にして、自分を責めている風にして、すべてを理解している風にしていたのでしょう。本当は、悲しみから逃げることは、免罪符でも何でもありません。でも、どこかで自分を責めることでそういう救いを求めていた、だから、目の前にある悲しみという感情から目を背けたのだと思います。
 それはやはりどこか自慰的ではないでしょうか。私たちは二人でいながらいつも、お互い背を向けてマスターベーションを繰り返すような、そんな空しさとすれ違いを、日々重ねていたように思うのです。心の中では触れ合いたいと望んでいながら、それを決して口に出すことはできませんでした。少なくとも私は、マスターベーションなどやめて、プライドを捨てて、裸で抱き合いたかったです。けれど、夫はそれを望んでいなかった。だからきっと、私にそれを言わせないような、そんな隙を与えないようにしていた気がします。

 夫はズルイ――。

 言わせないのです。言外に空気を出して、決して言わせないのです。ズルイです。
 ただ、夫ばかりを「弱い」と責めたいわけではありません。今になってみると、私はあの三日間で懺悔させてもらえたのかも知れないと思うから。ただ穴を広げるという、想像を絶する痛みであり、何の快楽もない恥辱プレイによって、自分の罪を懺悔させてもらえたような、そんな気がしています。
 もちろん、出産に比べれば、痛み自体は弱いものに違いありません。でも、中絶から来る痛みの先には、絶望しかないのです。出産の痛みには「やっと我が子に会える」という希望がありますが、中絶の痛みには、「殺めた我が子との対面」というゴールしかありません。それは、救いようがありませんでした。乱交を重ねたマゾヒスティックな私でさえ、そこに快感や興奮を見出すことはできなかったくらいです。
 私はその、救いようのない痛みを味わうことで、少なからぬ懺悔をさせてもらえたような、ほんの少しの免罪符を買わせてもらったような、そんな気もしています。
 そして同時に、この経験をしていない夫は、罪悪感から逃げられなかったのかも知れません。夫は罪悪感と無力感に苛まれたのだと思います。
 でもこれは今にして想像できる夫の心境であって、当時の私は夫が私より傷付いている様子に、それ以上近寄れないことを感じ取っただけでした。そして、「この人は弱いから、私が強くならないと」と自分を鼓舞しながら、孤独感を抱える覚悟を持った、そんな記憶があります。この時に感じた「夫には甘えられない」という感情というか覚悟が、その後四年間、私を縛ることになります。「夫には甘えられない」という覚悟、この覚悟を手放すことができたなら、もう一度夫とセックスできたのかも知れない、そうすれば他の男性とセックスすることもなかったかも知れないし、夫と離婚せずに済んだのかも知れない、そんな風にも思います。

 一時間ほどで義実家へ到着しました。そこで五日ぶりの息子に会いました。あの時に感じた安心感は、お気に入りのぬいぐるみを久しぶりに抱いた時のものに似ていました。ただ何の感情も挟まずに傍にいて、いつでも抱き合える存在。
 二歳の息子はきょとんとしながら「ママー」と言って寄ってきてくれました。状況もわからず、ただ久々に母親に会えたことを喜んでくれる我が子。
 その子を抱きしめて、心が少し温かくなりました。犯罪者のくせに、それでも私は温もりを求めてしまうのです。
 二歳の子供には何もわからないでしょう。でもわからないからこそ、何も共感してくれないからこそ、癒されることがあるのかも知れません。

 その日は義母の計らいで、スーパーのお寿司を食べました。義母はきっと労ってくれたのでしょう。「おかえりなさい」と言ってくれて、身体の心配をしてくれて、お寿司を買ってきてくれました。私はそのお寿司を普通に食べました。あの時、あのタイミングでお寿司を買ってくれた義母に対して、「なぜお寿司なのだろう」と少し疑問に思いました。でもきっと、そこに深い意味はないのだと、だんだんわかっていきます。義母はただ、悲しみを察して、ただ労ってくれたのだと思います。何か声を掛ける代わりに、美味しいものを買ってくれたのだと――。
 こういう気遣いに対して、私は実母よりも、義母のほうに何か偉大な優しさというか、強かさのようなものを感じることがあります。

 それにしても、あの時、もう少しプライドを捨てて、夫に素直に甘えていたら、別れずに済んだのでしょうか。もう少し早く自分の心を溶かしていたら、夫の心も溶かすことができたのでしょうか。
でもそれは、ほんの少しのモラトリアムを生むだけのようにも感じます。
 だって恐らく、私はそもそもセックスが好きだし、夫はそもそもマスターベーションが好きだったのだと思うから――。


第4章へつづきます。

          

         *  *  *  *  *  *


今回は少し残酷だったでしょうか。私は自分の経験から、人は愚かなことをしてしまう生き物だと思っています。ただ、それを繰り返さないことはできると思っています。

差別という観点からとても、センシティブな内容を書いているのは自覚していますが、決してそういうことが目的ではありません。

ここから少しずつ前向きな流れになりますので、良かったら次回もお読み下さい。

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