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生きる選択肢を

前回の記事の冒頭で、

 【僕は死に方が分からなければ、生き方も分からない。そして生き方が分からなければ、死に方も分からない】と述べました。

生きるというやつはただ健康に十分気をつけて命を長くするということを意味しているのではないよなと。

そして、どんなふうに生きるのが良いか、コンパスをもって冒険に出るような感覚を今回は考えたらよいかなって。

まず、 生きるの事に、【正しい】も【間違い】もないということではなかろうかと。

そして日常レベルでいうと、悩み、というものも同様に、大きい、小さい、という線引きもないのではと。

自分がうーん、うーん
と選んだ事、がそのまま自分の人生なのだと。

いくら後悔してもやり直すことはできないし、けどそれは誰だって失敗はしてると思います。

そんなことをくよくよしてもしょうがない って。でも、クヨクヨするときはするし、凹むとかもあるし…。 よく、 それをどう受け止めるかということだよなんて、言われることだけども…。

でも、果たしてそれは失敗だったのかどうかってことまで考えると、

一体、成功とか失敗とかって何を基準にして考えるの?って。

その時は思索もしないけど、その時思ってたほど、振り返ってみると、笑い話になるくらい、そうでもなかったよね、って事の方なさかむしろ多くなかったかと。

自分的に成功だと思った事が、本当の成功とは程遠いものだったりすることもそうだし、

失敗が後になってあの時こういうことやってて実りになってたかもしれないなっていうのはかなりあるのではって。

むしろ失敗と思われてたことから、

何かそのことが自分の人生にとって、 その時迷うな~って感覚はあるかもしれないけど、 

もっとあとで振り返ってからの方が、あのときは大きなターニングポイントだったなっていう風に思う事がが強かろうと。

 漠然と生きるというのは何も始まらないかもしれない。そらはそれでつらいことではあるけど。

ラッキーなことが降ってきたり、挫折を味わうこともあるかもしれないけど、いろんな道を行ったり来たり、試行錯誤しながら、進んだり、立ち止まったりするんだろうなー。

前回の投稿の繰り返しになりますが、

全ての選択肢は誤りを含んでいると。

それならどうすればいいのか。

どう生きればよいのかと。

皮肉なことに、今の社会では大きなプラスは大きなマイナスとを同じ様態をあらわすかと。

勝てば勝つほど良いというわけにはいかない。

社会的な成功と自分自身の幸せが比例するのはかえって難しいかと。

有名になればなるほど、社会的に評価を得れば得るほど、それが個人のプライベートだったり、日常的な幸せに繋がるかと言ったらむしろどうかと。生きづらくないかと。

皮肉なことに、お金持ちだったらお金持ちでさらに生活しづらくなったり。

不幸に向かって突き進んでいくこともあるかと。

もし人生がたった一度きりでなければもっと幸せになれたのにって思う人もいるかもしれない。

自分が選択した道以外の道を選んだらどうだったか? 気になる人もいるかもしれない。

でも、それを確かめることは誰にもできないし、

人生二度あればもっと素晴らしい言ってはずって考えるのは、案外虚構かもしれないなって。

でも、二度チャンス与えられるって言うのは必ずしも好ましいことじゃないですよね、ここまで読んで下さった方はそう思って下さるかと…。

そう、一度だからこそ、人生に意味が生じるのではないかと思うんですよ。

ここで、考え方を変えてみると、

誰しも思う通りにはなってないと、というか、みんな問題抱えていると思うんですよ。

人生の道筋という道に、たくさんの失敗が地雷みたく踏まない様に、慎重に、慎重に、

進んでもどこかでね、いずれ踏んじゃったりすると思うんです。 いずれね…

そうすると、だからこそ、失敗そのものをも肯定する生き方がむしろ必要になってくるのではないだろうかと。

降りかかった災難こそが、実は人生のきっかけになりうる可能性もあるかと。

そこから自分の人生のスタートじゃないかなって思う、く~るりんぱな文章になってしまいました苦笑い

最後まで読んで頂きありがとうございました(^-^)

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