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新潟のHIPHOPは、いかにして始まったのか【第一話】

とか、大それたタイトルをつけてはみたものの、所詮は俺の記憶と体験からしか書けないワケでね。

つまり

「あくまでも個人の意見です」

ってやつ。

間違ってる所もあるかもしれないけど、俺が実際に体感した上での主観なので、基本、苦情は受け付けませんよ(笑)。

とりあえず、いってみましょ。


1986年頃、新潟はまだHIPHOPが始まっていなかった

俺は、1984年に上京し、勤務したDISCOでDJ見習いを始めたんだけど、その頃の東京にはHIPHOPが始まっていた。

何をもって始まっていたと言えるかって話なんだけど、俺がこの頃に体感した東京HIPHOPの話を書き出すと長くなっちゃうから、それはまた別な記事に書くとして、、、

とにかく、80年代初頭から中期の数年で東京のHIPHOPは基本的な体を成し、確立されていったと思う。

しかし、帰郷した1986年頃の新潟には、まだHIPHOPが始まってなかった。

まあ、厳密に言えば、それっぽい流れはあったんだけどね。

「RUN-DMC - Walk This Way」が世界的に大ヒットし、「AFRIKA & ZULU KINGS - The Beach」や「Rock Master Scott & the Dynamic Three - The Roof Is On Fire」等がDISCOで流れはじめてた頃なので、新潟のDISCOでもラップミュージックはプレイされていたし、

1983年リリースの「Herbie Hancock – ROCKIT」の影響で、プレイ中にスクラッチをするDJも居たし、

MTVやSoul train等、海外からのビデオソフトが出回り始めていて、ダンスの流行も得れる様になっていたので、そこそこ踊れるダンサーも居た。

でも、まだラップをやってるやつは居なかったし、HIPHOPが音楽やダンスのジャンルではなく、それらをまとめたカルチャーなんだという認識に至っていなかったって感じかな。

インターネットも無く、テレビや雑誌でHIPHOPが取り上げられる事も少なかった時代。新潟〜東京間の新幹線が直通になったのは80年代中期。都内の情報を得ることもままならなかった新潟だけに、まだHIPHOPをボヤっとしか受け取れなかったんだろうね。

ただ、

当時、新潟には「The Bronx」と言う数人のDJで構成されたチームがあってね。新潟で唯一、本格的なHIPHOPをやってたのは彼らだと思う。

とにかく彼らは音楽のトレンドに敏感で、早すぎるくらい常に最先端を行ってた。故に彼らは、HIPHOPから次第にSOUL、FUNK、そしてHOUSE等へ音楽性が移行していったのです。

そうなると、いよいよ新潟からHIPHOPが無くなってしまう。

「んじゃ、俺やるわ」

って感じで、新潟にHIPHOPを定着させるべく、俺と数人の仲間達で動き始めたわけです。


「誰もやらないなら俺が」的に活動を開始する

いや、軽いノリみたいだけど本気だったよ。絶対、誰にも負けねえよって思ってたし。

活動拠点にしたのは、その当時、俺がDJで所属してた新潟市古町「People Power」。

余談だけど

その昔、新潟市西堀6番館ビル2Fに「Black bird」って言うDISCOがあって、金子さんってDJが居たんだけど、当時は彼が1番スクラッチが上手かったのよ。だから、勝負したくて系列店の「People Power」に入ったのに、入ったらすぐ彼が辞めちゃってね。それが、いまだに引っかかってる。

話を戻して
時は1988年。

「Def Jam Recordings」にドップリだった23歳の俺は、連日スクラッチや2枚使いの練習に明け暮れ、店内にスクラッチ専用のブースを追加したりしてメチャクチャやってた。

先輩DJに嫌な顔されながらも、ラップやブラックミュージックをかなり厚めに選曲したり。

そのかいあってか「People Power」には、それっぽい連中が集まる様になってきた。

そして

この翌年から新潟のHIPHOPシーンが急速に動き出し、衝撃かつ劇的な展開になっていくのでありました。

続く。

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