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新潟のHIPHOPは、いかにして始まったのか【第二話】

今でさえ、ダンスのジャンルは細分化されているけど、80年代は現在の「ブレイキン」「ポッピン」「ロッキン」の3つを一括りにして「ブレイクダンス」と呼んでいたと記憶してます。

当時の新潟は、ブレイキンを踊るダンサーが少なく、ポッピン、ロッキンがメインな感じ。

運動量やらなんやらで、ハードルの高さもあっただろうけど、新潟のDISCOのほぼ全店が「ブレイキン禁止」だった事もその原因の一つなんでしょう。

店側からすれば、立ちならともかく、フロアーに入ろうものなら場所取るし、アクロバッティブに無茶な事して、店を壊したり怪我したりされたら困るって事なんでしょうけど。

1984年に上京するまで、新潟市古町の大竹座にあったZIZIQUE(後に改装してMAHARAJAへ)というDISCOでウェイターをやってたんだけど、もちろん、その店もブレイキン禁止。

中で踊れないからか、店内から漏れる音を聴きながら、入り口付近のフロアでウインドミルの練習をしてる連中が居たっけ。

こんな感じでね(笑)。

右は、俺と同い年の友人「ワッシー」。今でも現役で踊ってて、タットが得意技。たまにダンスバトルに出たりしてます。

言ってみれば、彼らが新潟のオリジナルB-BOYであり、最初のストリートダンサーなんです。

ここで、あらためて言っとくと

HIPHOPは「ブレイクダンス」「ラップ」「DJ」「グラフティ」の4つの要素で構成されたカルチャーの事なんだけど、
1988年頃になるとブレイクダンスが一気に衰退し、「Bobby Brown」や「MC Hammer」等がMVで披露した、ステップをベースとしたスタイリッシュなダンス「New jack swing」の時代へ突入します。

ここから新潟のHIPHOPダンスシーンは急速に進化するんだけど、その最大の要因は1人の天才ダンサーによるもの。


新潟のダンスシーンを急速に進化させた天才ダンサー

そのダンサーの名は「Bobby」。

HIPHOPダンサーなら彼を知らない者など居ないでしょう。

新潟出身で、現在の日本のHIPHOPダンスシーンにおいて重要人物である彼は、当時から別格。誰も追随できない群を抜いたダンススキルとセンスで、新潟のみならず、全国のHIPHOPダンサーに影響を与えてました。

Bobbyは、数年前に「Red Bull Japan」のインタビューを受けているので、彼の経歴を知りたい方はチェックを。

80年代後半になると、彼はダンスを追求すべく海外へ。海外で放送されているミュージックビデオやソウルトレインのビデオ等、最新のダンスや音楽の情報が詰まったビデオテープを何本も我々に提供してくれてました。

俺達がHIPHOPを定着させるために拠点としていた新潟市古町のDISCO「People Power」では、そのビデオを常に流していて、それを見たお客さんが新しいダンスステップを吸収すると同時に、音楽の情報やファッションも取り入れたり。

そう思うと、あの頃の新潟のダンサーは恵まれた環境だったよなあ。
Bobbyが海外で吸収してきたダンスを目の前で観て、Bobbyが提供してくれたビデオを観て、練習出来たんだから。

俺もDJと同時にダンスにもハマって、下手なダンスを踊ってショーやったりしてました。いっちょ前にスーツはBobby Brownが着てた「Jean Paul Gaultier」。カッコから入る方なので(笑)。

その後、ZOOを生み出すダンス系深夜番組「DADA」が新潟で放送を開始(東京で放送された回が2週くらい遅れて放送されてたんじゃなかったかな)した事も追い風になり、新潟ダンスシーンはどんどん活性化して行きました。


The New Music Seminar Battle For World Supremacy & DMC WORLD DJ CHAMPIONSHIPS

一方、同時期に「The New Music Seminar Battle For World Supremacy」と「DMC WORLD DJ CHAMPIONSHIPS」という2大DJバトルが大規模な世界大会を開催するようになり、日本にもDJバトルブームが到来。1989年頃から日本でも同大会の予選が開催されるようになりました。

実際のバトルのビデオや海外のレッスンビデオ等、スクラッチに関するビデオがどんどん日本に入ってきて、サーフィンマガジンの「fine」等のファッション雑誌にも、スクラッチレクチャーや機材を紹介する特集ページがあったほど盛り上がってたね。

もちろん俺も影響を受けまくり。スクラッチやジャグリング(当時はトリックって言ってた)を毎日、めちゃくちゃ練習してました。

そして、1989年。

DISCO「People Power」は閉店となり、代わって「日本海側最大級」と言うキャッチフレーズと共に、あの伝説のCLUBがオープンする事になるのです。

続く。

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