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全部が嘘なのかもしれないと思うとき




 ――私がnoteに書いていることのどこからどこまでが真実で、どこからどこまでが嘘なのだろう?

 時折、そんなふうに疑心暗鬼になる。自分で自分について書いているだけなのに、どうにも自信が持てなくなる。虚栄心と劣等感と自尊心が同時に息をして、いずれの言葉が私の素直で、本音なのか、私は私を見失う。全ての記憶と思考は私の虚飾で、妄想で、ここには何一つ真実はないのではないか。そうして、本当は、「私」などという存在は、生きてはいないのではないかという恐怖を思い出す。

 魂の実在について、ずっと考えていた時期がある。魂とは何なのか、身体のどこに息づいているのか。魂と心はちがうのか。魂が思うのか、頭が考えているのか。思考は、脳が電気信号によって情報処理しているのだとしたら、心とは一体何なのだろう。気持ちを感じているのが心なのだとしたら、魂は何のためにそこにあるのだろう。――私が見ている世界が誰かの夢ではないという証明はどうしたらできる? 「私」は、本当に生きている?
 考えているうちに足許が覚束なくなって、「私」が世界に溶け出し消えそうになるのを、私は必死で押し止める。「私」を、私という個体の中に、無理矢理流し込む。手が動くことを確認する。空に翳して透けないかどうかを何度も見返す。地面を踏みしめる。私。そうしてようやく、私は「私」の名前を取り戻す。
 そのことにほっとして泣きそうになるのを、随分繰り返した。怖かった。「私」という意識はあまりに頼りなく、心許なく、「ここ」に留めておくのが難しいと思った。言葉を綴らずにいられなくなるのは決まってそういうときだった。思考を言語化すること、心を表現すること、魂の実在を証明することはできなくともそれらの行為は私を安心させた。「私」というものが確かに「在る」のだということを私につなぎ止める。

 だけど、もし。
 もし、私の言葉の全部が嘘だったとしたら?



 事を都合のいいように捉え直して、偏った目で見て、思い込み、ゆがめた形を「真実」にする。私はいつもそうなのかもしれない。だから時折、無性に自分の文章を疑うし、人目にさらすことを恐ろしく思う。私は正気ではないのではないかという葛藤が、ふと、指先を強張らせる。私は「私」を信用できない、きっと、永遠に。痛みや傷さえ「私」の実在を保証しない、それすらも幻なのかもしれないから。言葉が世界と接点を持つ、そのときだけ、私は「私」を確かめられる、ふれている、と思う、だからせめて少しでも、一瞬でいいから「ほんとう」でありたい。ほんとうの私とほんとうの言葉。解像度を上げた景色。真夏の雪のような、不確かな響きを超えてゆく。





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