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誰も知らない


 父王が死んだ。おのれが齢十三のときだった。
 その訃報が入ったのは、父王の死から一晩が明けてからだった。おのれは、姫をあわせて全ての兄弟の末子であったので、報の訪いは、あまり早くはなかったと思う。だから父王に近侍する者たちにより、死の周辺は把握されていたはずだったが、次第ははぐらかされた。否、はぐらかされたというより、突然のことに、知らせを持ってきた侍従も子細を知らないようだった。陛下が逝去されたそうです、と、侍従は青い顔で、けれど怪訝そうな目をしていた。
 父の急逝の、その少し前に、唯一母を同じくする兄が帰国した話は聞いていた。
 父王が身罷ったとなれば、即位するのは兄になる。

「兄上は?」

 動揺を抑えて平静を保とうとしている──そんな素振りを装って、訊いた。
 本当は、薄々、勘づいていた。突如としてもたらされた、父王の死の内実について。兄ほどの傑物ではないにしても、残念ながらそれほどに頭が悪い子どもではなかった。
 そして侍従は、そのとき、兄の状況を知らなかった。


 間もなくして、新王が即位した。戴冠したその人は、長く王位継承権を有していた、同腹の兄ではなかった。新王となったのは、体裁上は第一王子だが、生まれに疑義があり、父王によりルブラの紋章を授けられた男だった。聖書において裏切り者が首を吊ったとされるルブラ、それを自らの血筋の証明とする「長兄」である。
 兄は、兄弟姉妹の誰よりも秀でた、偉材だった。ゆえに、新たなる王がなぜ兄ではないのか、城内では様々な憶測が飛び交っていた。
 聞いたところによると、父王の死の直後、兄は、王の諮問機関である枢密院で王位継承権の放棄を宣言したのだという。母である王妃──すでに王太后だが──、それから母の生家であるラトランド公爵家の当主にして、貴族院の長たるザカライア・メディオフがその場でそれを認めたとあっては、兄の戴冠を推し進めることは難しかったらしい。兄が、継承権を放棄する由は、公には明らかにされなかった。
 兄の辞意とほぼ同時期に、異母兄の第四王子が暗殺された。そして、おのれは年齢を理由に推挙されず、結果として「長兄」が王になったのだった。


 新王の即位から九ヶ月後には王妃が冊立、そのさらに二年後には、兄の右腕であったハーシェル公爵家の嫡男が異母姉の一人と結婚し、代替わりをした。父の死を境に、ひとときのため息も許さずに、城の中は移りゆく。
 そのうちに、兄もまた、他国で婚姻を結ぶことになった。相手は、この年にようやく十六を迎える姫だという話だった。



「姉上」

 光の射す角度によってときに銀にも見える淡い金髪が揺れた。父が死んでからひと月後、久しぶりに目通りが叶ったときにはもう、彼女の髪は、肩につくかつかないかという長さになってしまっていた。妙齢の女性にしてはあまりにも短いその髪にも、疾うに見慣れた。
 おのれの声に振り向いた姉は、瞬き、それから少しだけ眦を柔らかくする。

「ウィリアム、どうしたの」
「釣書と絵姿から逃げていたら、偶然、姉上が見えたので」

 半分は本当で、半分は嘘だった。兄の結婚が決まり、いよいよ残す王子はおのれだけとなって、この頃はどこそこの貴族たちからよく追い掛けられている。そちらは本当である。うんざりしたように肩を落とすと、姉は品よく口許を押さえて、ふふ、と笑った。大変そうねと言うので、本当ですよと、わざとらしく半眼になり頷いた。

「姉上はこちらで何を?」

 問いながら、彼女の前にある、小さな庭を覗いた。敷地内にいくつもある整備された庭園とは異なり、本当にただの庭だ──ともすれば、おのれの感覚的には、野原にすら近いような庭である──。ここは、王族が居を構えるリンドブロム主宮の、果ての庭だった。意図的に足を向けなければ、王族のみならず、侍従や下働きたちですら訪れることがないような場所なのだった。城の庭園管理部に至っても、精々、末端の庭師が一人か二人くらいしか来ていないのだと思う。何種類かの植物が、植えられているというより、群生している。
 だから半分は嘘だ。偶然に人を見かけるようなところではない。
 姉は聡いひとなので、とぼけるおのれに、困ったような笑みをはいた。

「私のことが心配になったの? ウィル」
「それはもちろん。姉上のことを想わない日はありませんよ、僕は」

 僕は、の語気が少し強くなった。つい、棘が混じってしまう。奥歯で苦虫を噛み潰したいのを堪えながら姉を見ると、彼女はやはり、眉尻を下げて笑っている。風が吹いて、光の粒を凝らしたような金髪が揺れると、彼女の表情に陰翳が差した。
 改めて、姉に向き合う。肩の上で切り揃えられた金髪に、線の細い輪郭、落とされた睫毛は、雪花石膏の頬に、静かな影を作っている。誰よりも美しく、こんなにも儚いのに、と思った。──彼女の背を追い越したのはいつの頃だったろう。ほんの数年前まで、二歳年上のこの姉を見上げていた気がするのに、今では全く違う目線にいる。頭半分以上、高さの異なる眼差しで、このひとは何を見ているのか。

「兄上についていかれるのだと聞きました」

 兄が結婚する。兄の結婚は、妻を娶るのではない。ヴェンネルヴィクという、内陸のごく小さな国への婿入りなのだった。王位に就いて徐々に地盤を固めつつある「長兄」が、目障りな兄を体よく追い払うわけだ。姉は──異母姉は、それについてゆくのだという。父王が死んだとき、教会によって破門され、王族籍を離れたこのひとは、侍従らの代わりにただ一人、兄についてゆく。騎士として。
 夜に生きているかのような濡羽色の、男物の衣服を身に纏って佇んでいる姉は、何も言わずに庭を見つめている。彼女の騎士服も随分、見慣れたものだが。

「辛くはないですか」

 訊いたところでむだだと、わかってはいた。婚姻を結ぶ相手に異性の付き人がいては問題だろうし、延いては姉にどのような邪推と中傷が向けられるかなど、想像はあまりに容易いものだ。傑出した兄が眉目にも手腕にも優れていればいるほど、間違いなく、姉は影を踏むことになる。それでもこのひとは、ゆくだろう。自らが傷つけられることよりも、兄の傍らを選ぶのだろう。
 姉の選択は、騎士への道を歩み出したときから一度も変わっていない。
 父王が死んだあの日、あの夜、あの瞬間から。おのれはそのさまを目撃したのではないけれど、きっと、兄が父を手に掛けたそのときに運命の全ては決したのだと思う。鳥籠の鍵が破壊され、王の正気のために犠牲になっていた小鳥は羽ばたいた。その先がこの道なのだ。兄のために生きて、兄のために死ぬことが、このひとの望みの全てなのだった。
 わかっては、いる。
 いるけれど。

「あなたが幸せになるのでは、だめですか」

 現ハーシェル公爵のエリオット・ミラーが結婚前、姉に求婚したことを知っている。王族籍を離れても、四公爵の一であるミラー家ならば、姉の地位と名誉を保護することができる。だが、彼女はそれを断った。兄が継承権を放棄したことと同じく、理由は語られなかったけれども、それが姉の幸福の形でないことは確かだった。
 他方、姉に、騎士の訓練を施した男は、かつて唾棄するように言った。死なせて差し上げたほうがよほど幸せでしょうに、と。そして、そう考えている者は、恐らく一人や二人ではなかった。けれどそれも、本当に、彼女の望む幸福なのか。心を磨り減らし生きてゆくそのさまを、自分たちが見るのが辛いから、楽に死んでほしいだけなのではないのか。

(僕は)

 ──あなたに、生きてほしい。

「あなたに、幸せでいてほしいと想う僕は」

 罪深いですかと、言い掛けて口を噤んだ。許しを請うている。彼女のためには何も為さないくせに、おのれの心だけを救おうとしている。卑怯だ。卑怯だった。自分自身への怒りが湧き上がって、下唇を噛んだ。姉に何を言って、姉が何と返事をしてくれたら、この胸の痛みがなくなるのかを考えている。
 ざあざあと風が吹いた。その音が通っていったのは、庭だったのか心だったのか。
 ウィル、と姉の声が耳朶を打った。すっかり冷えきったらしい頬に、あたたかい手が添えられた。いつの間にか俯いていた顔を掬われて、目が合う。金の睫毛が彩るのは、森の奥に息づく真夏の湖のような碧だった。澄んだ青に、微かな翡翠が光る。その眸に映るおのれはどんな表情をしていたのだろう。
 姉はゆっくりと、ほほ笑んだ。



 あの日、姉が果ての庭で何をしていたのか、結局彼女の口から聞くことはできなかった。彼女は兄に従って国を発ち、やがて、憂慮したとおりの出来事が起こった。姉は、兄と離れて帰国する。父が姉にしたのと同じことを、悪辣な「長兄」が倣い、彼女へ施した。深い闇が澱を成し、姉は静かに病んでゆく。だから、今度こそ本当に死なせてあげるべきなのか、生かすことはおのれの独り善がりではないのか、彼女の枕元で何度も考えた。生きてゆくことは地獄で、絶望だった。少なくとも姉にとっては、ほとんどそうだったのだと思う。兄が傍らにいるそのことだけが、彼女の光だった。

「あの庭には、フィリカが植えてあったんです」

 姉の侍女たちは言った。果ての庭には、元々、兄が彼女に贈った花──フィリカが植えられていたのだという。フィリカは、春の訪れを言祝ぐ早咲きの花だ。そうかと思った。兄の婚前では時期がずれていたから、彼女は、そこに咲くはずの花を想って、何もせずに庭を眺めていたのだ。おのれが、姉の幸せは何なのかと思い煩っていたそのときもただ、彼女は彼女の心を凝らしていたのだと知った。

(辛くはないですか)

 愚かな問いだった。姉の望みはやはり、兄の許にしかなかった。何があろうとも、彼女にしかわからない彼女の幸せが、そこにはあったのだ。



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