煩悩(33)自覚症状のある「惚れっぽい」はどうにもならない

こんにちは、花輪です。すっかり気が向いたら筆をとるスタイルになってしまった煩悩ですが、もうしばらくお付き合いくださいませ。

好きなひとが、できました。糸井重里が生み出した、ジブリ映画『耳をすませば』のキャッチコピーです。私はこの映画を大好きなのですが、このコピーだけ全く共感していませんでした。

好きなひとができるなんて当たり前でしょう、そう思っていました。

元来、私は惚れっぽい性格です。小学校・中学校では学年で人気のあった男の子に首ったけの女の子でしたし、長く習っていたピアノで“どうしようもない酔っ払いで女好きな男”を表現した曲を弾けば「お酒も飲めないのに、なんでこんなにしっくりくるの」と先生に驚かれる、そんな子でした。

5年目の彼氏も、出会って4月の頃にはもう好きだった記憶があります。顔から入ったのか、性格がよかったのかすらもう忘れかけていますが、何かきっかけひとつあればすぐに好きになってしまうのが私です。

ですが、それはもうどうにもなりません。
一生、付き合っていくしかありません。

たしかに「恋」と「愛」には違いがあるかもしれませんが、その違いは人によって様々です。絶対的に違う、という人もいれば、紙一重の人もいるでしょう。そして私は、すべての好意が「恋」に近い人間でした。

友人に対しても、お付き合いしてみたい相手に対しても「好き!」という感情以上になかなかならないのです。だから、とは言いませんが、私には男女の垣根なく「友人関係」は存在するものだと思っています。恋の沸点を高くしたものが愛だとすれば、愛になかなかたどり着かないのです。

いま思えば5年目の彼氏も「恋」で終わってしまったのかもしれません。
だから相手に多く求めてしまったし、それに疲れてしまった。

「好きなひと」ができるのは当たり前かもしれませんが、
「好きであり続けられるひと」ができるのは奇跡に近いことなのです。

最近私が読み進めている、フロムの『愛するということ』。そこには「成功、名誉、富、権力、これらの目標を達成する術を学ぶためにほとんどすべてのエネルギーが費やされ、愛の技術を学ぶエネルギーが残っていない」と記されています。

現代の人々の多くは、愛が心にしか利益をあたえてくれず、現代的な意味での利益はもたらしてくれないと考えているのですって。

心が貧しい人には、絶対にならないぞ。
まずは、愛するという技術から学ぶぞ。

こと恋愛に対してどこまでも頭でっかちなことは置いておいて、今日もページをめくることにします。

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