煩悩(25)理性をとるか、感性をとるか
ものすごく放置してしまい、すみません。花輪です。
高校の友人(片手で数えられる)と飲むと、大抵バカ騒ぎをする民度の低い集まりになるのですが、地頭がいい連中なので気を抜けません。
「気を抜けない」といえば、私と5年目の彼氏はお互い気を許し合っていました。食事をすれば、私はペラペラ話し続け、彼はスマホをいじり続けました。旅行に行けば、私は朝おきられず、彼は服を畳みませんでした。
ある意味、私は彼の前だと「アホ」になっていました。まったく頭を使わない人形のような存在、にへらにへら笑いながら「へーきへーき!」と言いまくる女でした。
もちろん、それがダメだったとは思いません。むしろ、それが私の素であったのかもしれません。
しかし、私の大学時の所属団体は180度「違う場所」でした。
文学系の学部だったこともあり、いわゆる言葉が大好きな集団でした。小説をはじめ映画や芸術など、「言葉」に還元できるものなら、何でも好きでした。
ここで、私は違和感を覚えました。
彼との付き合いと、まったく違ったのです。
私にとっては、両方とも居心地の良い空間でした。それは間違いありません。しかし、対極にいるかのような空気の差がありました。
それが「理性」と「感性」です。
5年目の彼氏とのケースを考えてみましょう。彼との時間は言葉を介さず、頭を使わず、ただリラックスする空間。それは即ち「感性」を重んじた場所でした。私は、彼の前ですごく「アホ」な人形でした。
次に、所属団体のケース。言葉をフルに使い、自分たちの興味関心の向くところ、すべてに対して考えを述べ合う。ここは「理性」を重んじた場所です。考える刺激や熱に浮かされた私は、文字通り考える人でした。
どちらも、大好きだった場所。しかし、その愛ゆえに「どちらが本物の私か」「どちらの空間を恋愛に望んでいるのか」わからなくなってしまったのです。
結果的に、私は彼と別れました。所属団体の友人とは交流が続いています。別れた直接的な原因とは言えませんが、理解できなかった結果がこれです。
彼の前で「アホ」になるのが嫌になってしまったのかな、と思ったときもありました。しかし、それこそ熱量のある議論を友人と交わした後は「これは、恋愛に持ち越してはムリ」と考えを改めました。
でも、でもですね。夢をみてしまったんです。
身近にいる人と、こんな話ができたら楽しいだろうな、って。
二兎を追うものは、一兎をも得ず。
先人の言葉が、胸にしみる夜です。
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