日本国憲法は平和憲法なのか

最近、考えを少し改めました。

日本国憲法という所謂付きの憲法を平和憲法という人が少なからずいて、以前は反感を持って見ていましたが、今はあながち間違ってはいないのではないかと思っています。

「平和」ということば割と新しい日本語だと思います。古来の日本人なら「太平の世の中」のような言葉を使った筈です。
「平和」は「ピース」を翻訳したものですが、パックスアメリカーナなどで使われる「パックス」と語源を同じくするという。「パックス」は「強者に平定された状態、強者の支配下にいる状態」ですから、「平和」も同じ意味になる可能性があります。

所謂日本国憲法は占領軍のユダヤ人が書いた文章で、当のユダヤ人が「人権・平等」みたいなものは普遍的でないと考えており、権力を奪うための闘争道具として使っています。要するに「有りもしないデタラメ」が書かれているのです。所謂日本国憲法は占領軍が日本が自立しない・歯向かわないようにするための指令書であって、正に「支配下に置いた」状況を作るための文章なわけで、それを「平和憲法」と呼ぶことは矛盾しない。

「平和」が問題なんですね。強者に平伏した状態を望むという心根に問題がある。

強者に平伏した状態というのは、別の強者が出てきたときは非常に不安定です。現在の米国に対する中国の存在みたいなものです。
また強者に平伏して言いなりなわけですから、その強者の意にそぐわない核武装、領土奪還、拉致被害者奪還もできないです。
「長いものに巻かれて、経済発展のみに腐心してきた」戦後というものを見直すとき、「平和」の意味をもう一度考えてみる必要があるのではないかと思います。

我々は「平和」という言葉に警戒すべきなんです。

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