結果の平等と機会の平等〜平等について考える

無いものを有ると思ってる言い争うことがありますね。

最近、森元首相の発言が炎上して男女平等信奉者たちが大騒ぎしています。幼稚だなと思います。

女性、障害者、子供など所謂弱者の立場を利用して分断を図る人たちが大勢います。頭が悪いのかもしれませんが、そういう信条をうっかり持ってしまった人たちが乗せられて大騒ぎ。

「女のくせに」「女だから」と言うと叩かれることが多いのですが、当の女も心の中で「男のくせに」「男だから」と思っていることがあって、結局のところ自分の中で差別意識のようなものを持っているから差別だと騒ぐのではないかと思います。自分の都合で差別か差別でないかを決めているだけみたいなご都合主義ですし、自分に無いものを持つ他人を嫉妬し自分のものにしたがる強欲です。

「平等」というものが本当にあるんでしょうか?「平等」は我々の言葉なんでしょうか?

良く働く人と良く働かない人が同じ給料を貰うというような結果の平等。誰もが同じ仕事に就けるという機会の平等。どちらも存在しないのではないかと思うし、存在してはいけないのでは?

所謂左翼は何でもかんでも平等だと言う。対して所謂右翼が機会の平等しかないと言う。どちらも間違いではないでしょうか?

全員が平等だとする思想は、例えば共産主義のような共産党に支配される人たち全員が等しく貧乏になるというものであって、平等か平等ではないかを争わせることで矛先が支配者に向かないようにするトリックです。そんな胡散臭いものを有ると思うのは、たぶん頭が弱いんでしょう。おそらく平等概念で相手を落として自分が上に立ちたいという欲望があるんではないかと思います。

体力の差があれば運動会のかけっこで差が出るのは当然ですし、数学が得意な人と絵を描くのが得意な人とでは、進路も暮らし方も違うわけです。目の前にあるのは「みんな違う」という厳然な事実だけでしょう。みんなが違う以上、出逢える機会も違えば結果も違うわけで、結果の平等も機会の平等も存在しません。

そういうことではありますが、唯一平等だと思えるものがあります。

それは「自分ができることを精一杯やる」こと。日本語では「分際」や「分限」ということになるのではないかと思います。昔ながらの考えを「古いものは悪いもの」と考える思想もあって難しいのだけれど、本当のところはほとんど考えてないんですよね。

この分際や分限は平等と対立します。人が何かを夢中でやって良い結果を出すのを、周りに合わせろと言って止めることになるからです。
「出る杭を打つ」心情の持ち主にとっては平等の方が都合が良いのだろうけれど、その心情の発露は多くの人にとって迷惑でしかない。新しいもの好きの革新的な人は村社会を嫌いながら、村社会の悪い部分を剥き出しにするというような矛盾が露呈する。左翼っていうのはよくこういう矛盾を見せます。

平等を声高に叫ぶ人というのは「嫌な奴」でしかないのです。

うっかり変な思想を身につけてしまうのは、やはり頭が弱いからでしょう。記憶力が良くても考える力が足りなければ甘美な言葉にやられるわけで、高学歴でも頭が弱い人もいるのです。考える力を身に付けずに体だけ大きくなった幼稚な大人とも言えると思います。「○○ちゃんが持っているオモチャが欲しい」と泣く幼児と大差ない。

自分ができることを精一杯、他人と比べるのではなく自分に向き合い、昨日の自分より今日の自分が優れることに気持ちを持って行く。そういうことを続けていれば、人によって進捗度合いは違うでしょうが、いつかはとてつもない力が身につきます。人のものを盗むような欲ではなく、何かに献身して何らかの境地に達したいという欲に自分の欲を転換してはどうかと思います。

頭が弱くて
幼稚で
嫌な奴

嫌でしょ?そんな大人は。


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