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#14 強者(マジョリティ)の困惑

 気がつけば、新年度…もひと月ほど過ぎてしまった。

 「主夫と暮らす」生活も数年続けているとそれが日常になっているし、主婦と主夫の世間から向けられる視線の違いや「大黒柱」とされる人間が男性の場合と女性の場合の周囲からの扱いの違いなどにもそろそろ慣らされてきてしまった気がしている。ちょっとネガティブな言い方になってしまったけれど、ポジティブに考えるなら、お互いの生活スタイルなどを知って折り合いをつけることが少しうまくなったのかもしれない。
 共働きであれば、一緒に過ごす時間も限られてしまう分、もっと早く折り合っていけるのかもしれないし、逆にそれぞれが干渉しないことが日常になるのかもしれない。
 アルさんと私の場合、私の出勤がいわゆる週5日フルタイムではなく、在宅での作業も多いため、一緒に過ごす時間が他の専業主婦(主夫)のいる家庭よりも長くなっているのだろうと思う。そのことが何の問題にもならないほど最初から息の合っている夫婦もいるのだろうけれど、アルさんと私の場合は生まれ育った環境も家庭の雰囲気(親戚付き合いなども含む)もだいぶ異なる上に、アルさんは曲がったことが嫌いで「ここは譲れない」という線がきっちりしているので、少々身勝手で「そこは私のために譲って欲しい」と線を押したり引いたり切断したりしたがる私とでは調整も大変なのだろうと感じている。
 こうして文字にしてみると、私が身勝手をやめればいいだけに見えるのだけれど(実際にその通りであるとも言える)人間とはそう簡単にはいかないものなのでいつも困っている。とはいえ、それを言い訳にせずに生きたい。

 これまでにも何度も書いてきたけれど、病人であるアルさんと私の関係は、「病人と健常者」という文脈で考えれば私の方が圧倒的に強者(マジョリティ)である。私がそうと意図せずとも、健常者であるからこそ意識せずにいられることはたくさんある。
 アルさんと一緒に外出するようになるまで、駅でエスカレーターが混んでいれば階段を上ればいいと思っていたし、階段しかない地下鉄出入り口についても「荷物が重いときはちょっと疲れる」程度の認識でいたけれど、今はできるだけエスカレーターを使うし、どこを通れば近いか、長い外出の場合は疲れた場合どこなら休憩できそうか、どのタイミングで休憩したらよさそうか…事前にかなり考えたり調べたりするようになった。そして、休憩できそうな場所があまりなかったり、途中で抜けたり休んだりできない外出だと不安になったりもする。また、調べ過ぎて慣れないルートを使うことでかえって労力を使う結果になってしまったこともある。

 こうした経験から私が実感として理解したことは「健常者でないと外出が億劫になる」ということだ。かつて東京メトロを車椅子で利用する際に事前にどの駅の何時発の電車に乗ってどこで降りるのか連絡をしなければいけないという話を知人から聞かされて吃驚したときにも、外出することがハードルになってしまう社会なのだと思った。
 こうした面で進んでいるヨーロッパで歩道の真ん中を少々ぼんやり歩いていて後ろから来た車椅子ユーザに「ちょっと道を空けて!通れないよ」と声をかけられたことなどを思い出して、健常者でないことが足かせにならない社会なら、もっと外出できるし外出したいひとだってたくさんいるのだろうと思っていた。社会福祉に力を入れている都市では、車椅子ユーザの他にも片腕のないひとや知的障碍を持つ人をよく見かけた。社会に「ハードル」が少ないから、彼らは健常者と同じように当たり前に一人で外出して生活しているのだということも改めて考えてはいた。
 それでも、なお、自分が健常者の視点からなかなか降りられないでいるということが、アルさんとの生活の中でよく見えてきた。

障碍者が自由に外出できないのは、

 ① インフラの不備
 ② 健常者の無関心(差別心)

の2つの側面があると思う。

 ①については、インフラを整備して障碍があることで不利益を被ることがないように最大限バリアフリー化を進めることで解消していく必要がある。②については教育を通じた啓蒙が大事だけれど、①が実現して、町中で当たり前に障碍者を見かけるようになった方が早く進む面もあるかもしれない。

 自分が好きでマジョリティになることを選んだわけじゃないし、インフラ整備を差別的に行ったわけじゃない。だから、多くの健常者は「あなたは強者(マジョリティ)なのだ」と言われても困惑してしまう。健常者とひと括りにしても、私には社会的な決定権は何もない。ただ、悪意に基づくものではないにしても、健常者が弱者の視点を無視してしまえること、気にせずとも不自由を感じることがないことがある、そのことをまずは自覚したい。
 そして、社会的な決定権をもっているひとたちがそれに気づいて是正措置をとっていくように促すことが大事だと思っている。私と同様に決定権を持たない単なる一個人の健常者仲間には、「あなたも含めた私たちには、力を合わせて、より多くのひとにとって、よりよい社会を実現する責任があるのだから、ともに手を取り合おう」と呼びかけたい。

 視点を変えれば、自分がマイノリティである場面もあるし、どちらが社会的に強者であるかというのは、いついかなるときも固定的なものではない。自分も社会的弱者の立場になることがあるのに、残念ながら「弱いのは努力が足りないからだ」と考えてしまうひとも多い。特にマイノリティ人口が多い差別問題については、マイノリティが存在することを前提に社会ができあがってしまっているので、変革が本当に難しい面もあると感じているのだけれど、できるところから少しずつでも社会が改善されることに反対する理由があるだろうか。

To be continued...


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